KREUTZER



〜Sechs〜

 サマサに着くまで、エドガーは寝る間も惜しんで伝書鳥が運んできた書類の山を片付けた。
 村にはティナとロック、そしてセリスがいた。ロックの隣にセリスが自然と立っている。エドガーは彼らが和解したのを思い、笑みをほころばせた。それに気付いたのは、親友のロックとセッツァーだけである。
「まんまと帝国にやられたな。皆も無事でよかった」
「エドガー殿の情報のおかげでござる」
「お茶を運んできてくれたレディに、ご挨拶したら丁寧に教えてくれたよ」
 エドガーは微笑んだ。
「便利な特技だな、兄貴……」
「女性がいるのに口説かない。そんな失礼なことできると思う? 礼儀だよ」
 エドガーとマッシュのやりとりを、セッツァーはぼんやりと眺めていた。
「レオ将軍が、殺された。ケフカにな」
「そうでござるか。帝国にいる数少ない理解者が、無念でござる」
 エドガーとマッシュはティナを見た。いつも感情を映さない碧のガラス玉はうっすらと憂いを帯びていた。
「大変だったね、ティナ。君はとても頑張ってくれたよ。あとで疲れのとれるお茶をマッシュに入れてもらうといい」
「ありがとう、エドガー」
「とにかく作戦の立て直しだ。飛空挺に戻ろう」
 魔導士の血を引く老人ストラゴスと、彼に育てられた少女、リルムを仲間に加えてエドガー達はサマサを後にした。
「ジジイにガキがまた増えたか。おい、エドガー。夕食後、お前の部屋を空けろ」
「セッツ」
 エドガーは立ち止まった。
「俺の部屋は広いから、そこで仕事しろ。邪魔はしねぇから」
「でも……」
 言葉を濁すエドガー。
「マッシュ、ロック、カイエン、ガウが一緒に使っている部屋よりも随分広いぜ。文句あるのか? あぁ、あの伝書鳥も飼っても構わない」
「セッツァー。忘れているかもしれないが、兄貴はフィガロの王なんだ」
 返答に困ったエドガーのかわりに、マッシュが口を挟んだ。
「忘れてはいない。だが、それがどうした?」
「普通、王が他人に寝巻き姿など見せるか? 身の回りの支度をする側近と女官以外の他人に」
「いちいちそんな事、気にするぐらいなら旅に出なきゃいいじゃねぇか」
 セッツァーとマッシュの会話は、静かだが言い争いの兆しが見えた。
「マッシュ。ここでは私はフィガロ王ではない。皆と同じリターナーの一員だ」
「兄貴」
 マッシュはセッツァーを頭のてっぺんから爪先まで見下ろした。
「俺みたいな下賎な奴が、王様と同じ部屋なのは納得いかねぇってか?」
「セッツ!」
 マッシュに突っ掛るセッツァーにエドガーは声を上げる。
「今、使わせてもらっている机とベッドがあれば。それと、仕切りというか衝立のようなものがあれば、いいよ」
「じゃ、決まりだな。行くぜ」
「兄貴がそれでいいのなら」
 マッシュとセッツァーは、どうも折り合いが悪い。エドガーでなくともセッツァーですらそう感じた。




 夕食を終えたエドガーは、いつものように部屋で仕事を始めた。セッツァーはワインを片手に長椅子での読書。
 黒竜と白竜の長い胴が絡み合う絵が描かれた大きめの衝立。その向こうで、紙の上を優雅に走るペンと紙をめくる静かな音。
 時間はゆっくりと流れる。セッツァーは3本目のボトルを開けた。
「セッツ」
 日付が変わろうとする頃に漸くエドガーが口を開いた。
「飲みすぎじゃないか?」
「そうでもないよ」
「3本め」
「開けたばかりだ」
「なら、私も少しだけつきあっていいかい?」
「終わったのか」
「うん。そっちへ行ってもいい?」
「ああ。遠慮するな」
 セッツァーは立ち上がってキャビネットからワイングラスを取る。エドガーが衝立の横に姿を現した。
 奥にベッド。手前には低い木のテーブル。その前には広めの長椅子。
「そこ、座れよ」
 エドガーは真ん中より少し端寄りに座る。セッツァーはエドガーのグラスにワインを注いで座ると、椅子の角に背中を預けた。
 二人は何も言わずにグラスを掲げて、ワインを口に含む。
 セッツァーはエドガーの横顔を眺める。長い睫毛、額や頬にかかる後れ毛の淡い金の輝きが美しい。
「お前、この旅に出て髪の手入れや着替えなど、身支度に苦労しているのか?」
「苦労はしていないよ。城にいると側近達が身の回りのことをしてくれてはいるけど、自分でもできることだから。ただ」
 エドガーは、セッツァーの肩から背中に流れている銀の髪に視線を移す。
「砂漠の国フィガロでは、王の金の髪は太陽、青は恵みの水を象徴する神聖なものなんだ。だから代々フィガロの王は、長い金の髪を青のリボンで束ねていてね」
「風呂入る時や寝る時は、その髪を解くから、他人には見せられないってことか」
 エドガーは目笑して小さく頷いた。
「そういうの理解できねぇ。俺とは育ちが違うや」
「理解しなくてもいい。そういう慣わしがあるというのを話しただけだから」
 エドガーの長い睫毛の影が白い肌の上で揺れる。
「色男が台無しだな。目の下の隈」
「帝国での滞在が予想以上に長引いた。仕事がたまっていてね」
「今日はもう寝るか?」
「これ飲んだら」
 セッツァーは、半分ほどあるワインをエドガーのグラスに注ぐ。その後自分のグラスにボトルが空になるまで注いだ。
「澱が……」
「俺は、澱なんて気にしたことはない。飲める酒は何でも飲んでいたからな」
 エドガーはセッツァーから視線を外すと、俯いて微笑んだ。セッツァーは見知らぬ手に内臓を鷲掴みにされたような痛みを感じる。
 王様とギャンブラー。会うはずもなかった二人。だが、偶然にも出会ってしまった。国での反対を押しきってこの旅に出てきたといっていたエドガー。二人で飲み語らう時、セッツァーはエドガーを王様と意識することはなかった。
 だが、この夜セッツァーにはエドガーとの距離を感じた。
「セッツ」
 エドガーはグラスを持つセッツァーの手から紫紺の瞳へ、ゆっくり視線を移動させた。
「どうしてシドを追い返したんだい?」
「当たり前だ! お前の配慮は有難いが、あの機械は誰にも触らせたくないからだ」
 エドガーは瞼を伏せて木のテーブルに視線を落とした。軽く瞬きをしたあとセッツァーの瞳へと戻る。
「私が触ったのも、いけなかった?」
 セッツァーはエドガーの問いに答えずにワインを口に含んだ。
 誰にも触れさせたくない領域。エドガーは勝手に機械を弄った。それを知った時に不快には思わなかった。何故? という疑問もなかった。
「お前は……特別なのかな……」
 低い声で呟くセッツァー。
「じゃ、またあの機械を触らせてくれる?」
 エドガーの笑顔が大輪の花を咲かせたように華やかになる。
「ああ。俺が許可した時だけな」
 エドガーは少年のような瞳を輝かせて頷いた。




「……い…で」
 セッツァーは薄い眠りから覚める。仄暗いランプの灯が白竜と黒竜を浮き立たせている。その向こうにいる人の気配さえも感じさせない静穏。だがセッツァーの耳には微かに声が届いた。
「いか……ない……」
 セッツァーは隣人の名を口に出しかけたが、息を呑んだ。ベッドから出て、数メートル先にある衝立を眺めた。四つの竜の瞳がセッツァーを射抜くように鋭い。
 その向こう側から呼吸の乱れた吐息が零れていた。セッツァーは徐に衝立の傍に近寄った。竜の険しい瞳を一瞥すると、あちら側へ歩を向けた。
 青白いシーツの上に広がる細い無数の金の糸。その中央に浮かぶ羽二重のように滑らかな白い肌。凹凸のはっきりとした計算されて創られたかのような美しい顔立ち。
 波打つ金色の絹糸から麗しく甘い薫りが漂う。


――息が苦しい……。内臓を吐き出してしまいそうだ――


 白い腕が浮かぶ。エドガーの細長い繊細な指がセッツァーの胸元に触れた。
「……いで…。いか…な…いで…」
 エドガー!? セッツァーは声に出さず名を呼んだ。夜着を掴んでいるエドガーの左手に自身の奮える右手を重ねる。
 覗きこむと、そこには神聖なるフィガロ王の真の姿があった。いや、セッツァーには見たことのないエドガーの姿である。
 人形のような白磁の肌。聡明な額の下に浮かぶ形の整った麗しい眉。閉じられた瞼にある長い薄金の睫毛。すっと天井を仰いでいる高い鼻筋。桜色の唇。シャープな顎。その顔を取り巻いている黄金の絹糸は優雅に波打っている。
 完璧な美。神が創造した、唯一の人間ひと)に宿っているかのようだ。
 セッツァーは長い間エドガーの寝顔を見下ろしていた。セッツァーの夜着を掴んでいる手は離れない。
 全身を流れる血が早鐘を撞いたように迸る。だが頸から上の面は、ゆっくりとエドガーの顔の上に落ちていった。温もりがセッツァーの薄い唇に伝わった。


――俺は、どうかしてる! こいつは男だぞ。
  欲求不満か? この俺が?!――


 セッツァーはエドガーの寝顔から離れた。懸念した事は起こらなかった。エドガーは表には出さないが、精神と肉体が限界までに疲れていたのであろう。夢から覚めなかった。
 再びエドガーの端正な寝顔を見下ろす。やがてセッツァーの背中に戦慄が走った。


――神よ! 許せ。
  俺は、この光り輝く人を暗闇に貶めるだろう。
  それでも止まれぬ。誰も止めることはできない
  己の罪深きカルマは繰り返す!――


 夜着を掴んでいたエドガーの手に力が入った刹那、セッツァーは首筋に冷たいものを感じた。
 エドガーの瞼が開かれた。紺碧の瞳が慄いている。右手に持っている護身用の短剣の刃は、ぴたりとセッツァーの長い首筋に当てがわれている。
「セッツ!」
 エドガーはセッツァーの胸元の衣を掴んでいる左手を眺めた。やがて自嘲の笑みを浮かべる。
「刺客だったら既に喉を裂かれて、事切れていたね。
 この私が何と無防備な姿を曝け出していたことか」
 エドガーは短剣を持った手を下ろした。
「ここで……何をしていたの?」
「ひどく魘されていたから、見にきてしまった。悪かった…」
「疲れているんだ……。夜明けまで、もう少し眠りたい」
 エドガーの途切れたように静かな口調はセッツァーを閉め出した。セッツァーは頷き、エドガーの視界から離れた。
 部屋を後にしたセッツァーはカジノルームへ向かった。静まり返った廊下を抜けると、ガラス扉の向こうは漆黒の闇。慣れた足取りでバーカウンターへ向かう。傍にある小さなランプに火を灯すと黄色い光が浮かんだ。
 グラスと酒を棚から持ってくる。再びランプの前に座って、酒を注ぐ。それには口を付けずに光の前に翳した。
 グラスの中の液体はランプの光を受け、淡い琥珀色の輝きを放つ。穏やかに揺れる半透明の金の液体が、エドガーの髪の色に重なる。
 グラスに口を付けると、ほどよく辛いアルコールがセッツァーの上唇に触れ、舌先に勢いよく流れ込む。
 口端から零れ落ちた酒を拭うように、右手の甲が下唇に押し付けられた。その手はベルベットのようにしなやかなエドガーの唇が刻印されたように熱が伝わってきた。


 セッツァーが部屋を出てから暫くして、エドガーはベッドから起き上がり、机の上のランプに明りを点けた。
 壁にある卵型の鏡に蒼白い顔が浮かび上がる。黄金色の絹糸が肩から背中へと流れていた。
 引き出しから櫛と二本の青いリボンを取り出したエドガーは髪を梳かし始めた。黄楊櫛がしっとりとした細い金の髪に沈む。細い数本の絹糸を爪で弾いたような音が響き渡る。
 櫛を置きリボンを手に取ったエドガーは、片手で髪を持ち上げ、項にそれを垂らすと手際よく髪を結んだ。更にもう一本のリボンで肩甲骨の下に広がる髪を結わえた。
 ガウンを羽織り、胸元をきちりと重ね合わせた。


 グラスの中で穏やかに揺れる黄金色の漣。セッツァーは左手に持つグラスを左右に傾げながら光る液体を眺めていた。
 小さな金属音が背後で聞こえた。衣擦れの音。
「エドガー」
 傾げたグラスから目を離さずにセッツァーは、夜明けの珍客に声をかける。
「セッツ。私の寝言で起こしてしまったようで。ごめん」
「こっちへ来て座れよ」
 エドガーの足取りと共に木の床を撫でる衣の音が響き渡った。やがてほんのり甘い香りがセッツァーの鼻孔に届いた。
「何か飲むか?」
 エドガーは微かに左右に首を振った。
 セッツァーの隣にいる人は、カウンターに肘を付き、指と指を交差させた上に顎を置いて目を伏せた。
 白い項がガウンの襟元から伸びている。両耳朶の後ろで青いリボンが金の髪を束ねていた。
 エドガーはここへ来る為だけに、いつものように髪を結んで来ていた。本当に他人には見せたくないのであろう、解いた髪を。
 セッツァーが謝罪の言葉を探していたそのとき、エドガーの長い睫毛が上を向いた。蒼の瞳はセッツァーの背中に垂れている銀の髪を映す。
「私、何か言っていた?」
「魘されていたようだが、はっきりとは聞き取れなかった。どんな夢を見ていたんだ?」
 エドガーの視線は、セッツァーの腰まである銀糸の上を緩やかに流れる。
「同じ夢を何度か見たんだ。旅に出てから、いや。君と出会って、この船に乗るようになってから」
 セッツァーの右の眉尻が僅かに上がる。
「穏やかな銀の波が金の光を受けて燦然と輝き、優しさが広がっていて。
 断片的に映る白い堕天使。同じ顔をした二人の幼子。
 私の手を握ってくれていた温もりが遠ざろうとする。喚き叫んでも私の声は届かない。
 やがて私は何もない、誰もいない闇に一人……」
 エドガーは漸くセッツァーの紫紺の瞳に視線を移した。
「この船に悪霊でも棲みついたか? それがお前に憑依したとか」
 セッツァーはくすっと笑って酒を飲み、グラスを空にした。
「何故、私に?」
 エドガーは肩を軽く浮かせて落とす。
「悪霊がお前に魅入ったんじゃねぇか」
「その悪霊がレディだと歓迎するね」
 エドガーは笑いながらセッツァーのグラスにスコッチを注ぎ足した。
「私も頂いていいかな?」
 頷いたセッツァーはグラスを取ってきて酒を注いだ。
「今夜もほぼ徹夜だな。目の下の隈、消えないぜ」
「君もね」
 エドガーは帝国に滞在中にも同じ夢を見たことは言わなかった。
 セッツァーは目に見た現実しか信じない。もちろん悪霊などの存在を認めたこともない。
 だが、エドガーが見た夢のいくつかの言葉が気にかかった。それは湖面に浮かぶ月が、微風に揺らされ次第に形を崩していくかのように広がる不安。
「そろそろ、マッシュかセリスが起きてきそうな時間だね」
「まずいな。一旦、部屋へ戻るか」
 小窓の向こうには、東雲の空に浮かぶ半透明の白い月が姿を消そうとしていた。



美しい
それゆえに
壊したくなる

Back Next