KREUTZER



〜Sechzehn〜

――マッシュ! いけない、その声を聞いては!
 マッシュ!! ――


 鈍色の雪が大地へ落ちてゆく。
 主が眠る寝室から、掠れた声がキューイ大佐の耳に届く。
 王の寝室は主が眠りに就くと、静寂だけが全てを包み込む
 国王の寝室へは通常、大臣と主侍医しか入室できない。だが、王の眠る寝室の間を中心に隣接する小部屋がいくつもあり、そこには王を守る衛兵、身の回りを世話する侍女達が控えている。
 キューイ大佐――エドガーの近衛連隊長――は、王の吐息すら聞こえるほどの部屋で何度も隣室へ向かおうとした。
 国王の寝室では厳重な警戒が張られている。砂漠が殆どを占める小国だが、歴史は古く、独自の機械文化を築き豊かな国であるフィガロは、力で伸し上がってきた大国にとっては目障りな国でもあった。歴代の王達は、何度も刺客を送られ身の危険を晒されることもあった。
 先代王は帝国と王弟の陰謀により毒殺されてしまった。
 国王の寝室は神聖な領域でもあり、また眠る王の命を狙う輩から全て遮断しなくてはならない。それ故に警戒態勢も厳重であり、エドガーにとっては休息の間ではなかった。
 眠る王の安全を守る為に、隣室ではキューイ大佐の部下である近衛兵達が常に控えている。寝室は煌びやかな調度品などの間にからくりの扉がいくつかあり、その薄い壁の最も近いところに衛兵が近侍している。
 フィガロ王であるエドガーは、エドガーという一人の人格を安易に他人の前で曝け出すことはない。だが、幼少の頃から彼を見守り続けてくれた大臣、神官長と共に、忠実なる騎士、アラン・キューイの前では自分を出せた。
 キューイは、眠れぬ夜を過ごす主の溜め息を聞くことがある。『今宵は、頼む』そうエドガーが言った日は彼だけが隣室に控える。
 エドガーは他人に個人的な欲望は、殆ど出さない人である。それだけに、大佐に“頼む”という日は、よほど休息を必要としている夜だ。そういう夜は決まって隠し通路を抜けて、王子だった頃の寝室へ行く。眠れない主が隠し通路へ向かう衣擦れの音は僅か17歳という若さで王となった日から、何度も聞いている。そこは、唯一彼が安らげる部屋であった。
 また主に頼まれなくとも、大佐は自らが宿直(とのい)を務める時もある。エドガーが寝込んでしまった時だ。
 意識を失ったエドガーが寝室に運ばれたこの夜も、キューイ大佐が近侍した。
 エドガーは何度か弟の名を叫んでいた。よほどの事でない限り、近衛兵が王の寝室に入ることはないが、大佐は何度も逡巡した後、意を決したように薄い壁を回転させた
 中央の寝台は天蓋から流れる白の薄絹で囲まれている。その中で眠るエドガーの呻き声が、大佐の手を動かせた。
 国王の眠る姿を臣下の者はまず見る事は許されない。果たしてエドガーは肩を震わせ言葉にならない声を発し、何かに怯えていた。額の上の髪は汗でしっとり濡れている。
「ダメだっ!! マッシュ!!」
 はっきりと聞き取れる言葉。何度も叫んでは肩を震わせた。
 大佐には、どうすることも出来ない。額の汗を拭いて震える肩を大きな手で押さえただけだ。
 ややあってエドガーの震えは治まった。呼吸も落ち着いたので、キューイは手を離した。眠る主に一礼し、下がろうとしたその時である。左の手首を掴まれる。
「セッツ!! 行かないで!」
 エドガーのサファイアの瞳が見開かれた。驚くキューイは掴まれた手にそっと右手を乗せて跪き頭を垂れた。暫く泳いだエドガーの視線が“何か”を掴んでいる自身の右手をゆっくりと上に辿った。
「アラン……か」
 見慣れたキューイ大佐の栗色の髪を捉えたエドガーは、現実へと意識を取り戻した。
「申し訳ございません、ひどく魘されているようでしたので」
「構わぬ。心配をかけたようだね。もう大丈夫だ」
 エドガーは丸一日眠っていたのと、セッツァーがファルコンの整備に向かったことを大佐に聞いて知った。
「アラン、仕度を」
 本来なら、まだ薄暗い夜明けの頃。白く透き通り始めた月が窓の外に見えているはずだ。このような時間に主が寝所をでるのはよくあることだ。
 先ほどまで、微熱と悪夢に魘されていたエドガーは額の汗を拭い、勢いよく起き上がった。その機敏な行動に、これより出かけようとする主を止めることはできぬ大佐である。
 身体の汗と髪に付着した埃を軽く流したエドガーは、侍女に仕度を手伝わせたが、髪が乾ききっていないのに青いリボンで束ね、寝室を後にした。
 足早に向かった先は図書室の奥にある、地下だ。
 扉の前で居眠りをしていた男は足音に気付き飛跳ねるように立ち上がった。
「陛下!」
 喉の奥で言葉を出した男の声が裏返っていた。城主は滅多にここを訪れることはない。だがフィガロ王にしか、この扉の先に進むことはできないので、普段は足音すら聞こえない寂寥の場所であった。
「すまない、起こしてしまったようだね」
 5つの鍵を取り出したエドガーは重厚な扉を開けた。開閉と同時に明かりが灯される。
 小さな部屋だが、フィガロ王家の歴史が保存されている蔵所だ。
 エドガーはまっすぐ紋章が彫られている大きな箱がずらりと並んだ棚に向かった。絹の手袋を装着して一つの黒い箱を手に取り、厳かに開いて巻物を手に取った。
 まだ紙は新しい。代々の王が国王を継いだ時に自らの手で系図を書き足す。開いた系図はエドガーが11年前に書き足した最新の系図である。
 フィガロの歴史は何千年と長いが、詳しい系図は500年ほど前からしかなかった。それより以前の資料は殆ど残っていない。
 エドガーは最初に書いた王の名を確かめた。書き写した時には何も感じなかったその王の名。代々続く王家ではファーストネームやミドルネームに歴代の王と同じ名前を使うのは当たり前であったので、過去の王の名前に気にすることなどはなかった。
 残っているもので最も古い系図を箱から取り出し、古びた紙を丁寧に開いた。
 王の名はマシアス。
 妻の名、子の名、孫の名、彼らの配偶達の名が書かれていた。だがマシアス王の父と母、そして兄弟などの名前は書かれていない。明らかに王が過去の系図を抹消したかのように思われた。
 マシアス王が書いた文字を指で触れたエドガーは、背筋に旋律が走った。
「私が…いない…?!」
 エドガーは系図を箱に戻し、それを持って蔵書を後にした。そして急ぎファルコンへ向けて雪の大地をチョコボで駆けた。
 厚手の白いマントを羽織りフードで頭を覆ったが、白い頬は冷たい雪に打たれ、ほんのり赤みを増した。針で刺すような冷たさだが次第に痛みが薄れ、全く感じなくなる。しかし、エドガーの心は皮膚の感覚とは反対に痛み出した。
 自身の欲望を封じ込め、理想と違う自分と生きて行くのには慣れているはずなのに、揺れ動く。
 一人でファルコンへ向かったセッツァーに置き去りにされたと童心のように寂しく、早く彼に会いたいという思慕に似た感情に狼狽する。
 どんよりとした厚い雲間から光を浴びた鈍色の中にファルコンの姿を見つけるまで、エドガーは剥き出しの自身に煽情され失望した。
 これまで、己の考えや思いに逡巡することはなかった。
 常に冷静な判断と、然るべき自分像を創り上げ視認できる“自己”を確立していたので、根底にある自身を見失うことはなかった。判断や決断は、国の為を第一に考えればいい。それが自己犠牲を伴うのも厭わない。フィガロ王を演じるのが日常であった。
 だが、今のエドガーは自身を見失いつつある。
 ファルコンを確かめると、手袋の下の感覚がなくなった指で手綱を強く握り、寒くて辛くなったチョコボを宥めながら、惑乱した感情を振り払うかのように足を速めた。




 ファルコンの機械室は、外界と変わらず寒々しい。奥の方から淡いオレンジ色の光がエドガーの足元に流れてきた。
 小さな暖炉の側には取り替えられた部品や機材などに紛れて、酒の空瓶も転がっていた。
 梯子に跨って作業をしているセッツァーの後ろ姿にエドガーは開きかけた口を閉じた。
 邪魔にならないように銀の長い髪を後頭部の上の方でスカーフを使って束ねている。黒いシャツの背中に銀の髪が力強く一筋の滝のように垂れている。
 エドガーの気配に気付かず作業に没頭しているセッツァー。
 少しの間、セッツァーを眺めていたエドガーは、彼の名を呼んだ。
「エドガー!」
 驚いたように振り向く。
「機械を弄りだすと異世界にいったようだね」
「体は大丈夫なのか?」
「このとおり大丈夫。心配かけたね。私も手伝うよ。その前に…何か食べた方がいいようだな」
 何も食べず酒だけを飲んでいたのが窺える。
「それと、見せたいものがあるんだ。少し休まないか。降りておいでよ」
「何だ、見せたいものとは?」
 梯子から降りてきたセッツァーは、油で汚れたビニールの手袋を剥がして床に捨てた。
 エドガーは敷物の上の部品や空瓶を片付け、絹の手袋を着用し古い系図を丁寧に開く。
「フィガロ家に残る最古の系図。約500年前もので、私と君が生きた時代だ」
「何故わかる?」
 セッツァーはエドガーから手袋を受け取り、系図の上に手を載せた。
 系図に触れると、この時代に生きた彼らが瞬時に脳裏に流れ込できた。だが全てが見えたわけではない。記憶の破片(かけら)だけである。
「私はこの時代もフィガロ王だったはずだ。いや、正確にはマシアス王の一つ前の王だ。だが、兄マシアスは、私の名や両親の名などを書き記さず、彼の代から始まっている。これより前の系図がない、明らかに彼が抹消してしまったかのようだ」
「何のために?」
 エドガーはすぐには答えなかった。金の柳眉が微かに動いたのをセッツァーは見逃さない。
「私……。弟を憎んでいたのか…」
「お前を…いや、どんな事情があったか知らないが、その王を憎むなんて有りえねえ。
 そういえば以前、マッシュが言っていたよな。およそ500年ほど前に早世した双子の弟を弔って兄が王家の墓を建てたとか」
「墓を建立したマシアス王は別人だ」
 エドガーは珍しく強く言い放った。セッツァーは驚いたように深紫の瞳孔を開き、濃紺の瞳を覗き込んだ。
「エドガー? どういう意味だ」
 エドガーは何度か目を瞬かせた。朧な光を受け、瑠璃色の瞳がひどく不安げであった。
「いや、違う。同じマシアスだ。だが、セッツ。このマシアス王の筆跡から、いやなものを感じないか?」
 セッツァーには何も感じない。
「このマシアス王は、マッシュだ。なれどマッシュとは思えないほどに……」
 エドガーは先の言葉を口に出したくなかった。邪悪なものを感じたことを。
「お前が生まれるところには、必ずマッシュも一緒に生まれるってことか。マッシュが言っていたように、王家の双子は不吉ということか?」
「そうかもしれないが、もっと大事なこと。全ての元凶をつくってしまった何かを忘れているんだ。
 セッツ。このままでは、また同じ過ちを犯してしまう」
「そのことと、ケフカと関係があるのか?」
「そうだ。いや、わからない。私はどうすればいいんだ」
 エドガーは肩を落とした。正気であるはずなのに、こんなにも混沌とし、自信を失い”つつ”ある彼の姿にセッツァーは、驚倒した。
「わからないことを考えても仕方ねえ。俺らのやるべき事は、もう決まっているだろう? 一日も早く、仲間を探し出して、ケフカのヤツを殺るしかない」
 セッツァーはエドガーの肩を抑えるように強く手を載せた。ここのところ何度か見せた、自身を見失いそうな彼を、手の届かない所へ行かせないために。
「とにかく食って、ワインで身体を温めて。お前も整備の続き手伝ってくれ」
 セッツァーは、エドガーの言うことについて考えたくなかった。いや、考えても思い出しても、どうにもならないことを何処かで感じていたのかもしれない。
 人は都合の良いところに身を置きたがり、都合の悪いことには向き合いたくないものだ。
 向き合ったところで、後に起こるべきことに、どう足掻いても遅いのだ。
 理想を勝ち取る為に生きてきたきた男は、目の前にある現実(いま)だけでいい。
 ワインで身体を温めながら、部品の取替えなどファルコンの整備についてセッツァーから説明を受けたエドガーの瑠璃紺に光が差した。
 漣立つ蒼いオアシスに跳ね返る黄金の光。セッツァーはようやく安堵する。
 その日の午後から、セッツァーとエドガーはファルコンの整備に夢中になった。
 淡いオレンジ色の灯りが刻(とき)の経過を止める。
 空腹を感じたら食し、疲れたら仮眠をとる。時折、相手のそんな姿を目にすることもあったが気に留めず、二人はほぼ言葉を交わすこともなく整備に没頭した。
 エドガーが来てから正確には何日経ったのかわからない頃に、機械室の扉がノックされた。
 マッシュとセリスの姿があると思い、扉を開いたセッツァーは外の時間を知った。
「ギャッビアーニさま」
 恭しく頭を垂れるエドガーの騎士。
「エドガーさまから伝書を頂きまして」
 大佐の後ろに部下数人の姿を確認する。食料や着替えなどを持ってこさせたのだろう。
「わざわざ、あんた自らがか?」
 大佐が出向くまでもないだろうとセッツァーは思うが、
「心配で様子を見に来たのだな」
 にやりとした。
「安心しろ。“陛下”は城にいる頃より元気だぜ」
 振り返ったセッツァーの目線の先を見たキューイ大佐は喫驚した。
「ここに来てからは毎日、アイツの好きなことだけやっているんだ。あの表情(かお)を見ろよ」
 城を出たときに羽織っていた、白いマントの上にセッツァーのコートらしきものが見える。その下で背中を丸め、膝を抱えるように眠っている姿を最後に見たのは、エドガーが10歳になる前であった。
 物音にも気付かずに、眠っている。
 青の絹が解けかけ、束ねていた金の髪が広がり、その真ん中にある、眠るエドガーは誰にも見せたことのない寝顔であった。
「ここは、エドガーさまにとって、安らぎの場所であるようですね」
 大佐は微笑する。
「あ? あぁ……そういえば、アイツがあんな姿で寝入っているのは、俺もここへ来て初めて見たな」
 嘗て同室で過ごす日が多かったが、エドガーは決してセッツァーに寝姿を見せることなどなかった。




 金の髪に白い雪を載せてマッシュは甲板から黒い海を見ていた。
「予定より半日早く着きそうね」
 セリスの声を聞いたが短く返事をして暗い波から目をあげない。
「足りなかった部品を届ければ、明日の午後には飛び立てるわね」
 マッシュは苦笑しセリスのアクアマリンを覗き込んだ。
「セリスは、ほんと強くなったな。そうだな。一刻も早く仲間を……ロックを探しだそう!」
 セリスは少女らしい笑みを浮かべた。その笑みにほだされたマッシュは、一日も早く仲間を探してケフカを倒しに行こうと思った。
 全ての音が漆黒の深海に沈むが如く、灰色の雪は静かに消えていく。
 降り止まぬ、救いようのないほど冷たく悲しい雪を葬り、天からの暖かい金の光が大地を照らせば、何もかも元通りになる、そう信じたい。



決められた運命(さだめ)に
何も恐れることはない
貴方がいればそれでいい


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