KREUTZER



〜Fierzehn〜

 音は罪深き人の心を揺り動かせた。
 ピアノが絡まないあの曲の旋律は、狂気だ。
 言葉よりも貴方の音は私の深層(おく)へ語りかけてくる。罪深き心、それは優しい音なのに、時には激しく私の響(おと)に語りかけた。


――今……
 あなたは、どこで私に語りかけているのだろう?―
 私の声は届いているのだろうか?――


 あの時も、あなたの響(おと)が、私の響(おと)に語りかけた。
 その音色は私を縛り、傷みを刻み付けた。




 弓を下ろした私は、セッツァーにバイオリンの音をせがんだ。
「陛下、まだ」
「堅苦しいことを言わずに相手をさせてくれないか? 私は君の音が聞きたくてたまらない」
 軽く笑ったセッツァーはバイオリンに身を任せた。弓に触れる白い指、弦を押さえる長い指、揺れる銀の髪。何もかもが艶かしく、私の心を躍らせた。
 私の婚約者は、幼馴染で隣国の可憐な姫であった。
 彼女のバイオリンは優しく悲しい音色であったが、その音に、懐かしさと喪失を感じた私は、“私の響(おと)”を探し求めた。
 フィアンセにセッツァーを紹介されたのは、15歳の時であった。
 彼は謎めいた人だった。
 どこで生まれたのかも話さない。各国の貴族にバイオリンを教え、宮廷などに招かれる楽師という素性しか知らなかった。
 風来坊なセッツァーは私にとって、奇異で興味を抱く人であった。
 彼はフィガロの王子であった私に敬意は払うものの、他の者とは違った。
 言葉使いはあまり良くないが、かえってそれが親しみを感じさせた。
 自分では卑しい身分と言っていたが、バイオリンを奏でている彼の姿は人々を魅惑させるほどに神々しい。
 蒼く輝く銀の髪が風に靡き、聞いたことのない艶かしい音を奏でる彼が退屈な私の心を揺さぶりかけたのかもしれない。
 だから、ピアノで彼と語りあう時空(とき)が私の唯一の居場所であった。
 フィガロ王家に双子の弟として生まれた私は、エドガーと名づけられた。兄はマッシュ。マッシュは生まれつき体が弱く、城外で療養させられていた。
 早くに母を亡くした私たちは、親の愛に飢えていた。父王は私たちを愛してくれていたが、父である前に彼はフィガロの王だった。それ故に幼い私たちは父よりも王の存在が大きく近寄りがたかった。
 私たちの周りは大人ばかり。彼らは優しいが、それは私たちが王の子であったからだ。そして彼らの子供たちも同じであった。だから同じ年頃の友達をつくることもできず、孤独であった。
 幼少の頃、私と兄はいつも一緒だった。幾日も兄の館に泊まることも多かった。だが私が王位継承を告げられてから、なかなか兄の元へは行けくなる。そんな頃にセッツァーが現れた。
 週末にセッツァーは城へやってくる。いつの頃からか、気軽に外出できなくなっていた私は、次第に彼の訪れを待ちわびていた。彼との時間だけが、いつしか自分らしく振舞うことができ、とても心穏やかになれたのだ。“他人”にそんな気持ちにさせられたのは初めてであった。
 セッツァーの音が私を狂わせたのか? いや……。
 私は彼を愛さずにはいられなかった。決められたように彼に魅かれていく。
 銀の髪が、紫の瞳が、長い指が、なにもかもが私の心に叩きかけてきた。


「陛下?」
「セッツァー…。私のことを名前で呼んで欲しい。私は……」
 私の側に立つセッツァーの腰を引き寄せ弓を持つ手を握って彼を求めた。
 しっとりとした銀の髪が私の頬を撫で、彼の温かい舌を感じた。私は激しく彼を求めた。
「エドガー……」
 初めて名前で呼んでくれたセッツァーの声が私の何もかも…存在さえも溶した。


 何度も罪を犯すとわかっていても、止められなかった。


 貴方が愛しい。
 貴方だけを感じたい。
 貴方を愛することが罪としても、それでもいい。




 舞い落ちる雪の中に佇む人は、いつの時も幻影のようだ。
 銀の長い髪は穢れのない雪をのせて艶やかに光を放っていた。
 夢から覚めたエドガーは、引き寄せられるように音もなくテラスへ向かった。
 外は全ての時間が閉ざされ、“二人の時間だけが”動き出した。
 記憶がエドガーの胸に流れ出した。


「セッツ……君は、いつも私を驚かせてくる」
 エドガーは凍てついたセッツァーに近付き、濡れた髪に触れた。
「その音……。このバイオリン、君の……。また会ったんだね……」
「ああ……」
「セッツ……私を……探していた?」
「あぁ、ずっとだ」
「ずっと……」
 エドガーの二つの蒼いガラス玉が、暗い宇宙(そら)を泳いだ。
「なぁ、エドガー。今も」
「セッツ、私は、変わらない。今も君を……。やっと君に逢えた」
 灰色の雪を映していた紺碧の瞳は、しっかりとセッツァーの紫水晶を捉える。
「バカヤロウ。思い出すのが遅せぇーんだよ」
 エドガーの瞳は昔と同じようにセッツァーを求めた。
「ごめん……」
 焦がしてしまうほどに熱い吐息に委ねながら、絡み合う心の音がどことなく狂気を導き不安でならないが、エドガーは彼の心を求める。
「セッツ。君の音が聞きたい。また相手をさせてくれないか?」
「ああ……。
 何百年ぶりかに聞く音だぜ。痺れるなよ?」
 久しぶりに笑ったセッツァーにエドガーも微笑んだ。
 エドガーは雪に濡れたセッツァーの手を牽いてピアノの横に立たせた。そして、何度か手揉みをして蓋を開け、白鍵を撫でる。
 セッツァーは昔と同じようにバイオリンを肩に置いた。樺茶色に輝くそれを抱く彼の姿は溜め息を誘うほどに美しい。軽く瞼を閉じて弓を引いた。エドガーに語りかける最初の音を出す。
 エドガーはその音を受け止めるように、そっと指を下ろした。
 囁くように始まった二人の音は、バイオリンに頷くようにピアノが絡みだす。
 互いに語りかける。二人の鼓動が一瞬止まると、堰を切ったかのようにセッツァーのバイオリンが駆け出した。激しく縺れだした二人の音は連綿と続く彼らの想いを描き出した。


「マッシュ、どこへ!!」
「音が」
 寝静まった城に帰ってきたマッシュとセリス。
 マッシュは出迎えた近衛兵達の言葉には耳も貸さずに、慣れた“我が家”の石畳を走り出した。
 城内の近衛兵に捕まったマッシュに追いついたセリス。
「マッシュ! どうしたの?」
「お帰りなさいませ、殿下。今夜はごゆるりと…」
「兄貴は?!」
 臣下の言葉をまるで聞いていないマッシュは、目を泳がせた。
「はっ。陛下は、お休みになられている時間です」
 物腰柔らかいもう一人の近衛兵が応える。午前2時を過ぎた時間だ。普通の人間なら眠っている時間だが、エドガーなら起きていても不思議ではない、とセリスは思う。
「そうか」
 マッシュは気のない返事をして、薄暗い廊下へと蒼い瞳を泳がせた。
「セリスを彼女の部屋へ案内してくれ」
「殿下は」
「俺に構うなっ!」
 マッシュらしからぬ、やや強い口調で臣下を黙らせる。
「セリス、ゆっくり休めよ」
 言い終わらぬうちにマッシュは庭園に続く廊下へと走り出した。
「マッシュ!?」
 ゆっくり休めそうにもないセリスは、マッシュの後を追う。しんと静まり返った城内。一体どこに音が? しかし、回廊を抜けると庭園の向こうにある部屋の明かりが見えた。
「あっ!」
 マッシュの背後でセリスが小さく声をあげる。
「しっ!」
 ピアノの横に立ったセッツァーがバイオリンを弾いている。
「あの二人!! セッツァーがバイオリンを弾いている!?」
「黙って!」
 マッシュには音が聞こえているようだ。
「あの曲……うっ」
 嘔吐くのを抑えるように胸を押さえた。
「マッシュ!」


「……!」
 ピアノの音が止まった。
「エドガー?」
「何だ…この感覚は……このざわめきは……」
「エドガー!」
 セッツァーはエドガーの肩に手を置いて自身に向かせる。
「セッツ……」
 濃紺の瞳孔が開く。
「エドガー。気分が悪いのか?」
 答えがない。肩にあるセッツァーの手に小さな震えを感じる。振動が止むまで数分経った。
「大丈夫だ。ここのところ、またあまり眠っていなかったからね。疲れたのかな」
「今のうちに身体を休めておけよ。マッシュ達が帰ってきたら今度は、お前にも整備手伝ってもらうからな」
「私にまたファルコンを触らせてくれるんだね!」
 エドガーに少年のような無邪気な笑顔が戻った。セッツァーは頭で考えるよりも早く彼の顎に手をかける。
 次の瞬間、エドガーから笑顔が消え、ほんの少し肩を強張らせたのを感じたセッツァーは理性を取り戻した。しかし、理性と行動は別だ。さらさらと流れる金の前髪をやや荒く払い、エドガーの額に熱い唇をあてる。
「きれいだな…。おやすみ、エドガー」
「セッツ! 幼い頃、父上がしたことと同じように……」
 エドガーは、狼狽し嗤った。
「父。そうではなくて俺にとってのお前は、まるで穢れの知らない乙女のようなのさ」
 セッツァーは声を立てて笑った。


「兄貴が、他人にあんなに気を許しているなんて…」
「セッツァーが笑っている!」
 セッツァーは仲間の前で笑ったりしなかった。
 咄嗟に戦慄いたセリスの手はマッシュの腕を掴んだ。


「セッツ…」
 ピアノから離れたエドガーはセッツァーの弓を持つ右手を掴んで、彼の笑みを塞いだ。
 煙草の苦い味を感じるエドガー。絡んだ温もりと、金の髪から漂う甘い馨に酔うセッツァー。


「あの二人……」
 驚くセリスの手を払ったマッシュは、また胸を押さえた。
「アイツは…また、あの人を!」
「また…って?」
「なんだ! うぅ……頭が……痛い!!」


 私の僕よ! まだ思い出さぬのか?
 その感じだ! 怒りを露にせよ!
 そして……再び苦しめるがいい!


――誰だ!? 俺の中に入ってくるヤツは!
 苦しめるだと?
 エドガーとセッツァーをか?――


 芳醇な接吻に溺れるセッツァーは、またエドガーが肩を震わせるのを感じた。
「エドガー?」
 温もりが離れた。
「マッシュ!」
 エドガーは胸を押さえて屈みこんだ。
「エドガー! どうしたんだ!!」
 俯くエドガーを覗き込んだセッツァーの瞳に映ったのは、小さな子供が何かに慄き、蒼い瞳を濡らしている姿。
「いけないっ! マッシュ! その声を聞いては!!」
 エドガーはその場に崩れ落ちた。捨てられた子猫のように背中を丸め両肩を抱き、震えを止めようとしている。
「私を……許してくれ……」


「何でアイツなんだよ! 俺がいるのに!!」
 マッシュの声は苦悩と憎悪が宿る白い雪が包み込んだ。
「マッシュ。何を言って……」
 倒れているエドガーを彼の騎士が抱えて部屋を出た。セッツァーもその後を追う。エドガーは意識を失ったようだ。
 庭園の向こう側に彼らの姿が見えなくなると、何でもないなどと、作り笑いをしたマッシュ。
 眉間に皺を寄せたセリスは言葉をなくす。
「寒いな。休もうぜ。明日も早くに発とう」
「エドガーに会わなくていいの?」
「アイツがいるから大丈夫さ」
 寒いと呟きながら腕を擦り城内へ急ぐマッシュの後に続くセリスは、まるで夢を見ているようだった。




 お前の中の思いを吐露すればいいだけだ。何も恐れることはない。
 人は皆、真の自分の姿を認めたくないのだ。あの方がお前たちをそのように創ったのだ。
 あの方は何も感じない。ただ、お前たちの苦悩する姿を眺めるのがお好みのようだ。
 私の元へ来い!
 お前のその怒りで、また、あの者たちを苦しめればいいのだ! 全ての人々に苦難の呪縛を与えてやればいいのだ!
 そして、世界を滅ぼそう。
 くだらない人の思い、創られた世界など意味のない! こんな世界は葬るべきなんだ!  お前のその怒りもクダラナイ。だがその感情で全てを焼き払えばいい!
 あの方の気まぐれが創った世界で人は愛し、憎み、喜び、苦しみ、繰り返す。そんな世界なんてなくなればいい!
 全てが無になれば、この穢れのない白い雪のように穏やかなのに。愚かな操り人形達は何故わからぬ!




 気高く美麗な姿の白いピアノの側に、麗艶な光を放つ樺茶色のバイオリンが寄り添っている。
 二人が奏でる音色はどんな心なのだろう。
 人の心が、舞う雪の中に散華していく。全てが無になれば平穏が訪れるのだろうか。



全てが消滅しても
創られたとしても
想いは止められない

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