KREUTZER 墨染めに白練を散りばめたように踊る細雪は、私の上で舞い散り儚く消える。降雪が稀有な国で育った私には神秘的な光景だ。
〜Zehn〜
だが、昼夜問わず止まぬ雪は裂けた大地を白銀へと塗り替えた。
天空に太陽と月の姿が見えなくなってから幾月が過ぎたであろう。
私はニケア近郊に住む、年老いた漁師の夫妻に助けられた。最後の記憶にあったのは、ブラックジャックが空中で破壊してしまった事だった。
大地へ投げ出されたのに私は生きていた。いや、生かされたのかもしれない。ただ、それに気付いた時には、既に半年ほど時間が経っていた。
意識を取り戻した私は、世界が崩壊したことを知った。大地は裂け小さな町や村は崩壊し、大勢の人々が死んでしまった。
私を救ってくれた老夫妻の一人息子も幼い子を守り、命を落とした。
「貴方のように澄んだ瞳をした心の優しい息子でした」
老夫妻は世界が崩壊してしまった日の事と、亡くした御子息の話を涙ながらに語ってくれた。
髪や頬を濡らした雪を冷たいと感じた。赤土の地を白く染め尽くした光景。
夢ではなかった。あの日、世界は崩壊してしまったのだ。
「すまない……」
私は俯き言葉を失くした。
ケフカの暴走を止められず、いや彼の言葉を借りるならば、止めることもできなかった自身の無力さに悔しさが押し寄せてきた。
「どうなさったのですか? お顔を上げてくだされ」
夫人が私の肩に温かい手を掛けてくれたが、私は顔を上げることが出来ない。夫妻の話と、この村の崩壊に。
いや、それだけではない。この村と、この老夫妻だけではないのだ。世界中の人々が悲しみ苦しんでいる。
私が……。
「何処かの国の、お貴族さまですね。貴方の事を心配なさる方が大勢いらっしゃるのでは?」
大勢……。私の国は……。
「帰らねば!」
一刻も早く帰らねばならぬという思いとは裏腹に帰りたくない気持ちが私の
国も民も、ここと同じように無残に消滅してしまっているのではないだろうか? その現実を確かめることに恐れている私がいた。
大切にすればするほど大事なものが消え去る不安に慄いた。
私は世界が崩壊するまでのことを老夫婦に話した。
「何と! フィガロの王様で……」
「おばあちゃん。このきれいなひと、びょうきなおったの?」
柔らかい小さな手が私の髪に触れた。鳶色の双眸は穢れ一つなく澄んでいる。
「息子の……」
「どうかこの幼い子の未来の為にも再び立ち上がってください! 世界を救ってください!」
幼子は私の髪を弄って楽しそうに笑った。
「きんのかみ、きれい!」
私は小さな身体を抱き寄せ、命の音を感じ取った。
港町ニケアでフィガロ城が潜伏したまま浮上できぬという情報を得た。
広大な砂の海原に沈んでしまった城に潜入する術のなかった私は、崩壊後、城を抜け出してきたという盗賊達に出会う。
髪を薄茶に染め、荒い言葉を使って正体を隠し盗賊達に歩み寄った。フィガロ城の財宝を狙っている彼らは、城内に詳しい私をすぐに信用した。城を抜け出してきたという事は、逆に秘密の入り口を知っている。一刻も早く城に辿り着く事を願った。
ニケアを出る前に、マッシュとセリスに再会した。二人が生きたことに希望を持った。他の仲間達も生きていると。
――エドガー――
暖かい。
凍てつく吐息を溶かしてくれる声。
懐かしい。
溢れた雫を拭ってくれる低い声。
――わかるか? 俺の心臓の音。この骨を砕いて突き出てきそうなほどに激しい音――
鼓動。
激しく乱れた
「エドガー?! 窓閉めなきゃ冷えるでしょう」
私は俯きただピアノを眺めていた。
「どうしたの? エドガー」
黒鍵がほんのり白く染まったピアノを眺めていた私は漸くそこから離れた。薄青の瞳が私のぼんやりとした蒼を覗き込んだ。
「セリス」
「雪がここにまで…。風邪ひくわよ」
「眠れないかい?」
「ええ」
セリスは短く返してテラスの窓を閉じ、部屋の灯りを点灯した。ピアノの前を横切って、暖炉の前に白い指を差し出した。
「私、貴方たちに再会できて、希望を持ったわ」
セリスの頬が山吹色に染まる。
「私もだよ。君と弟が生きていてくれて」
「きっと、皆と再会できるよね」
私の国の民も大勢が犠牲になった。皆が生きていることは奇跡だ。
「セリス、お願いがある。バイオリン弾いてくれないか?」
「バイオリン?」
セリスは肩越しに振り返って微かに笑みを浮かべた。
「いいわよ……。でも、あれ以来弾いていないし、手が冷たいから上手く弾けるかわからないけど」
艶かしい音が私の心臓を
プラチナの髪。煙草とアルコールの香り。アメジストの瞳。
肌の温もりを今も憶えている。
――好きだ――
弓を持つ細長い指。私の髪を掬う指!
「セッツ!!」
――行かないで! ずっと僕の側にいて!――
――行かないで! 逝かないで!!――
私を優しく抱いてくれる声。もう離したくない。
だから……生きていてくれ……。
兄貴とセリスがあの曲を奏でている。
貴方は、また離れて行く……その音が近付いてきた。見えない壁の向こうへと。
――お前さえいなければ!!――
全てが夢であってくれればいい……。
アイツが消えていてくれれば……。
真っ白な粒が俺の頬を刺し、
全てが砕け散ったはずなのに、オマエだけが俺の側にいた。
「良かったわ。無事で」
碧の大きな瞳が俺を覗き込んでいた。その向こうに灰色の天井。薄汚れた白い壁。
「村外れの教会よ。神のお導きね」
「神……?」
俺は訝しげに女性を見上げた。
「そうよ……。世界が…人々が……あの日に……」
俺は忙しなく視線を泳がせ身を起こした。
「どうしたの!?」
ベッド脇の椅子の上に置かれてある、探していたものに手を伸ばした。女性はふいに肩を弾かれ驚いたが俺の指した先を見ると、目尻に皺を寄せて笑みをつくった。
「
そうだ……バイオリン。赤みがかった茶。木の目に沿って放つ光が幻想的で、艶かしい音を出す。この世に二つとない俺の一部だった。
「どうして、コイツが素晴らしいバイオリンってわかるんだ?」
女性は大事に楽器を手に取って俺に手渡してくれた。
「父は職人だったの」
「職人?」
俺の問いに女は微かに肩を竦める仕草をした。
「楽器を作っていたのよ。お城にもお納めしたことがあったって……」
「城……に?!」
俺は膝上にあるバイオリンに視線を落とした。
――陛下、まだ――
――堅苦しいことを言わずに相手をさせてくれいか? 私は君の音が聞きたくてたまらないんだ――
「大丈夫?」
俺の音?
俺は
「誰だ!!」
漆黒の空洞を瞬時に突き抜ける音。俺の頭の中で蠢く二つの影は束の間の安穏を与えてくれた。
左指が弦を押さえる。
「これを使って」
右手に弓を握らせてくれた女は柔らかい笑みをくれたかもしれないが俺は瞼を閉じた。
俺は頭の中にある暗い扉に手をかけた。
思ったとおり何もない、何も見えない。何もみえない、何もないのにコイツの詩だけが流れる。
「どうしたの!?」
震えていた右手が止まった。重なっているのは温かい
「無理はしないで」
女の声が俺を
「悪かったな。思うように弾けなくて」
女は肩で切り揃えた淡い金の髪を揺らした。
「いえ。謝るのは私の方です。
この素晴らしいバイオリンは、どんな音を出すのだろうと聞いてみたかったのです」
「どういうことだ?」
「この弓は、父の傑作だそうです」
よく見ると女は俺より若かった。灰色の地味な衣服が年相応にみえなかった。
「親父さんは?」
アーモンド型の瞳が開いたのがはっきりとわかった。白い小さな左手は象牙色の髪をかきあげ微かに震えていた。
「父は……あの日に」
俺は眉を顰めた。女の表情から聞いてはいけない事だと悟った。
「貴方は?」
何かを言いかけたが口を噤んだ。
女は何度か口を開きかけて閉じた。俺は彼女が何を言おうとしたのかが解らなかった。
「あの…貴方の大事な人は……」
「大事な人?」
俺は目を細めた。頭のてっぺんを鈍器で殴られたように痛んだ。
「ご両親とか、奥様とか……。あなた、もしかして……」
「頭……痛てぇ」
「あの、私……ごめんなさい……」
女の痩せた肩の上で揺れる薄金の髪が俺の視界を黄金色に染める。
靄のかかった二つの影。
「ピアノ!! ピアノだ」
「ピアノがどうかしたの?」
俺は女の手から弓を奪って瞼を閉じた。
左頬が冷やりとする。指の腹に沈む弦。大きく息を吸い込む。頭の隅っこで飽和した息をゆっくり吐きながら線の上に落とした弓を引いた。
張り詰めた音が乾いた空気を切り刻み、歌い出した。走り出したいメロディを宥めるかのように続くもう一つの音。それは穏やかな音で語りかけてくる。
もう一度ゆっくりと弓を引く。俺の旋律に滑らかに溶け込んでくる音。
伺うように短く語り合うメロディ。俺を見上げる視線。それを合図に駆け出す音が絡み合い重なり合う。
空洞に蒼と金が流れ始めた。
揺れる金の波。透き通った蒼の空。
――セッツ。私のことも名前で呼んで欲しい――
金の髪、蒼の瞳を持つ人。俺のバイオリンにピアノで語りかけてくる。
――名前で……――
気高く強いのに壊れそうで儚い美しい人。
その人の名は……
「ねぇ」
瞼を開けると再びそこには碧の大きな瞳があった。
「心臓が止まりそうだったわ。こんな音を出せるなんて! 父に聞かせたかった……」
「あの日…にか……」
女は俺の瞳を覗き込んだ。
「何か……思い出した?」
「あぁ。思い出したぜ」
――エドガー――
「俺の大事な人を……」
だから生きていてくれ。
ようやく思い出したか。悲しい奴らだ! この私のように己の愚かさを思い知るがいい。
愛が全てを焼き尽くすのだ。
私は堕ちた彷徨い人。消えることのない苦しみでお前たちを抱いてやろう。
全ての成り行きを静観しながら貴方は嘲笑っているのだろうか?
描いた想い
願わずとも
再会する