第四章  『涙』の日

 

  ……それは、零れ落ちた記憶の雫。

 

  ある者は、友の為に散ることを躊躇わなかった。

  ある者は、導ける者となった。

  ある者は、愁いを自らの心の中だけに留めた。

  ある者は、哀しくも最期まで自分であり続けた。

  ある者は、一人悔恨に打ち震えた。

  ある者は、闘いの中に何かを求めた。

  ある者は、果てしない闇を見つめ続けていた。

  そして、彼は………

 

  あらゆる想いを呑み込んで、運命の刻は迫る。

  その全ては、一筋の…涙に。

 

〜 1 〜

 

 僅かに光の射す、白く、薄ら寒い部屋で目覚めた‘彼’は、同時にその心も覚醒めた。

 

 ギムレットは、その報告を容易に信じることは出来なかった。

「……ルシアンが、さらわれた!?」

 それは全くもって、理解し難いことだった。

 敵の攻撃も無い。侵入者の形跡も無い。

 飛空艇は、着陸したまま突貫工事で修理中。破損は激しいが、新たな異常は無い。

 何も無いのに、朝になったらルシアンがさらわれていたという。

「一体、どういうことだ?」

「詳しいことは解りませんが、早朝に甲板修理に出たメカニックが、

倒れているカインさんを発見して…曖昧な意識状態のまま、ただ一言『ルシィが囚われた』と。」

 届いた情報を読み上げるフライア自身も、不可思議な面持ちだった。

 人一人さらうだけ、とは言っても厳戒態勢のキャッスル級飛空艦から連れ去るのに、

全く痕跡無く出来る筈はない。

「それが、レーダーにも艦内カメラにも写らないとは、どういうことだ?」

 ギムレットは首を傾げた。到底、人間業とは思えない。

 しかし、事実はもっととんでもなかった。アドニスは、甲板でカインを攻撃したときの衝撃や音さえ、

他の艦員には気付かせていなかったのである。

 これは、カインに発見されて以後、アドニスがカインを含む周辺に強力な結界を張ったためである。

それをしながら、攻撃も繰り出していたのだ。

 そのアドニスの恐ろしさを知ったのは、やられたカインのみだったが、

それはある意味で幸いだったのかもしれない。

人は、あまりにかけ離れた力の存在を知ると、戦意を失う可能性が多分にあるからだ。

 尤も、エスタールの人々にとって、どのようにさらわれたかより、‘ルシアンがさらわれた’

という事実の方が遙かに重要だった。

「ギムレットさん!!」

 突如、ブリッジの扉が開いて、リッキーが飛び込んでくる。後ろには、パロムやポロム、ヨシノも居た。

「ルシィがさらわれたって、本当ですか!!?」

 リッキーはいきなりギムレットにくってかかる。

あまりの剣幕に、ギムレットは少々焦った。

「あ、ああ…どうやら本当らしい。」

「どうして!?どうしてルシィが!!」

「……恐らく、魔女の力が目的だと思うが…」

 恐らく、というより、それしか考えられなかった。

先の戦いで発現したルシアンの力。それは、艦の皆も知っていたし、敵に察知された可能性も十分にあった。

 そして、これまでにもセントラがその研究に魔女を利用していたことは周知の事実。

となれば、新たに見つかった魔女…ルシアンがターゲットになっても不思議ではなかった。

「理由なんてどうでもいいだろ!? 早く助けにいこうぜ!」

 パロムがいきり立って言う。

「…そういうわけにもいかない。」

 横から口を挟んだのはスプモーニだ。

「ルシアンが連れ去られたのは、恐らく魔研のあるセントラル・シティ。敵の首都だ。」

「だったらなんだってんだよ?」

「解らないのか? 首都には最強の防衛体制が敷かれている。

そこから救出するなんて、革命軍の全軍上げたとしても100%不可能だ。行っても犬死にだ。」

 スプモーニは眼鏡を上げながら冷静に言った。

だが、そんな理論で納得するパロムではない。

「だからって、このまま見捨てるのかよ!? 

ルシィ姉ちゃんまでガフみたいになっちまったらどうするんだよォ!!?」

 ガフの名が出ると、ブリッジの面々はそれぞれに辛さを表情に示した。

 子供のパロムには、つい最近のガフのことがフィードバックされるのは当然と言えた。

 パロムは気丈に振る舞ってはいたが、仲良くまるで兄貴分のようだったガフの死は、

相当のショックだったのだ。

 否、子供達だけに限らない。これ以上、仲間を失いたくないという気持ちは誰にでもあったに違いない。

「だが、たった一人の為に全滅の危険を冒すワケにはいかない。それに…ルシアンは死ぬことはないからな。」

 それは、スプモーニにとってほんの何気ない一言だったのであろう。

 だが、場の空気を変えるには充分すぎた。

 ルシアンは、“魔女”。その意識が皆に、今までとは違う、ルシアンとの距離を感じさせた。

 一瞬、沈黙が場を支配する。

「……お主、それを本気で言っているのか?」

意外にも、一番最初に沈黙を破ったのはヨシノであった。

 声の調子はいつもと変わらないが、その目には怒りがしっかりと見て取れた。

「死ななければいいというものではあるまい。

仲間を捕らえられて、苦しめられるのは解っているのだぞ!?」

 仲間に対しては滅多に声を荒げる事のない…

というより皆無の、ヨシノの激しい調子に、スプモーニ以外の者も驚いた。

 彼の中で、過去のことと重なっていたのは間違いない。

「しかしッ、その為にもっと多くの血が流れるかもしれないんだ!」

 圧されながらも、負けじと声を上げるスプモーニ。

 さすがに、彼は作戦担当だった。全体を…更に、これからの戦いのことも視野に入れている。

 確かに、ここでエスタールが特攻同様に突っ込んでいったとしても、ルシアンを救出できる可能性は薄い。

万が一成功したとしても、戦力の大幅ダウンは避けられない。

 それでは、「セントラを倒す」という最大の目的は果たせなくなってしまう。

 ギムレットにもそれはよく解っている。だから、そう簡単に結論は出せない。

 大局の為には、ある程度の犠牲はやむを得ない…戦争の常識だ。

「だけど…それじゃあ、‘せんとら’と一緒じゃないですか?」

 ポロムの一言に、場の者は全員彼女を注視する。

 その言葉は、他の世界からきた者だからこそ、見えた真理だったのだろう。

 大国を維持するために少数の反対勢力を潰す…それと、仲間を見捨てることにどれほどの違いがあろうか?

 皆、言葉を失った。

と思った瞬間、カプリの報告が飛ぶ。

「艦長、カインが病室からッ…!」

「なに!?」

 

 カインは、昨夜自分が倒された甲板に立っていた。

体中に包帯を巻いたまま。傷も癒えないままに。

 本来なら、動ける筈もない重傷であった。

 だが、カインは立っていた。立たずにはいられなかった。

「カイン!そんな身体で、無茶だぜ!!」

 ドックで作業していたウォルナッツ以下のメカニック達が、カインの姿を見留めて飛びだしてくる。

カインが何をしようとしているかは、解っていた。

 だが、カインはその声が聞こえないかのように虚空を仰いだ。胸の包帯を力任せに剥ぎ取る。

「……いくぞ、ルーザ。」

 揺るぎない決意。

「きゅえええええええええええっ!!」

 甲高い叫びとともに、ルーザが突如現れる。

「な、なに??」

 ウォルナッツには、ルーザがまるでカインの中から浮き出たように見えた。

ルーザは、カインの心。常に、カインと供にある。

「ジャンクション!!」

 淡い蒼光がカインとルーザの双方から滲み出したかと思うと、

一気に炎の如く激しく立ち上り、全身を包み込む。

 氾濫した光が収まると、そこには蒼き竜人が立っていた。

「ま、待てカイン!!」

 だが次の瞬間には、竜人は高く舞い上がり、そのまま遙けき空へと飛び去っていった。

 

「南…やはり、セントラに向かっている……」

 ギムレットは、カインの行動があまりに無謀に思えた。

だが、咎めようとは思わない。彼の気持ちは痛いほどよく分かった。

「……決まりだな。」

 ヨシノがギムレットの思いを代弁した。

 リッキーが、拳に気合いを込めた。

 パロムとポロムが、顔を見合わせ頷きあった。

 スプモーニも、もはや反対しない。彼とて、仲間が大切であることには変わりない。

 ギムレットは、皆に対し力強く頷く。

「機関部、出力上げろ! エスタール、上昇!カインを追うぞ!!」

「了解ィイ!!!」

 ブリッジの声と意志が一つになった。

 

 どこまでも果てなく広がる空を、カインは独り翔る。

 速い。それは日の光を置いて行くかのような速さ。

 先の空…目指す一点を見つめ、跳び続ける。

 そのカインの脳裏には、ただ一人の少女が映しだされていた。

 

『アタシ、ルシアン=ミュール!ルシィでいいよ。よろしくね、カイン君!!』

……彼女は突然、風のように彼の心に吹き込んできた。

『アタシに関わるとイイコトないから…』

『ダメよ、アナタ達まで奴らに狙われちゃうわ!』

『……アナタ達も、行きましょ!』

『…強さって、そういうのばかりじゃないと思うよ、アタシ。』

『アタシだって、戦ってるんだし。』

『…優しい空、か。いいね、そういうの。悪くないよ?』

『お隣、いいですか?』

『戦わなくていいよ。アタシ達のことは忘れて、どこかへ……』

『傍にいて欲しいって……想ってる。』

『解ってますって、カイン様♪』

『ちっとも元気じゃないよ、置いてけぼりなんだもん。』

『アタシは皆の役に立ちたいの。皆の為に、何かしたいの。』

『ただ、皆と幸せに暮らせれば、それでいい……』

『アタシだけ何もやらない、嫌なことはしない、手を汚さない……そんなのは嫌!!』

『ありがとうカイン君、アタシ、がんばるから!』

『……そうか…カイン君も、探してるんだね……』

『…ゴメン、ゴメンね、守れなくて…』

『カイン君!…良かった、カイン君……』

『皆の為に、戦って、守って…なのに、どうして二人は幸せになれないの?』

『……だからね、カイン君は、自分を犠牲にしないで。』

『…カイン君が苦しんでると、アタシも苦しいもの……哀しいもの。』

『……コドモだと、思ったから?』

『……答え、見つかるまで、いなくならないでよ?』

『………いつだって、優しすぎるよ、カイン君は……』

 

「うぁおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」

 蒼き竜は、吼えた。

その速度が、一層増していく。まるで、空が自らの身を斬ってくれるのを望むかのように。

「お前、お前は…これ以上は!!」

 カインにとってルシアンは、魔女でも、革命軍の象徴でも、特別な何かでも、なんでもなかった。

 ただの、“ルシィ”。だが、それこそが彼にとって最も大切で、最も守るべき存在であったに違いない。

 彼は知っていた。彼が傷つくことをいたわる彼女こそが、一番傷ついていることを。

 彼は知っていた。彼にいて欲しいと願う彼女こそが、彼がいて欲しいと願う存在だと。

 彼は知っていた。彼を優しいという彼女こそが、誰より優しいのだということを。

 明るく笑う彼女は、けれどもいつも、どこか哀しさを伴っているように見えた。

 彼女の笑顔から悲哀を打ち払いたい…いつしか、そう思っていた。

『…幸せになれないの?』

 その言葉には、彼女自身が重ねられていたようにも思える。

 ……彼女は幸せにならなければいけないのだ。でなければ、この世は闇だ。希望も何もない。

 だから彼は、彼女を守ると誓った。

 しかし…彼女は彼の眼前で連れ去られた。

 どうすることも出来なかった自分。その自分が憎い。愚かしい。情けない。

 だからといって、カインは自分を卑下したまま動かないような人間では‘もう’なかった。

 まだ、取り戻せる。今は、まだ…

 だったら、悔恨してる暇はない。一刻でも早く、救わなくてはならない。

 …否、救うなどとは烏滸がましい。

 救い出すのは、自らの為でもあるのだ。側に、いて欲しい…

 彼女の涙を頬に感じたとき、抱けなかったのは、

きっと自分がそういう自己中心的な考えだと思ったからだろう。

そんな自分に、嫌悪すらしたかもしれない。彼は、自分の‘負’を知っているからだ。

 だが違った。実際は、彼女も彼を求めていた。

 それを実感出来なかったのは、彼の人と触れ合うことの未熟さ…臆病さであると言ってもいい。

 彼は外面の精神は強く装っているが、内面はそうではない。ひどく、脆い質。それを覆う殻。

 それでも…彼は殻を破り、漸く根底の意思のみをもって動けるようになった。

 だから、彼は今、空を翔る。

 彼女が大切だから…そして彼女も、彼を待っているから。

 そう、彼の心は覚醒めたのだ。

 カイン=ハイウィンドは、空にその感覚の全てを見た。

 

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