4 ミッドガルにたどり着いても、エアリスはずっと泣き続けていた。
そんな幼子を抱いて、イファルナはスラムをさまよい続けた。安い宿屋はたくさんあったが、とても落ち着けそうになかった。治安が悪いからではなく、ただいるだけで息がつまりそうになるのだ。ここにいては星の声が聞こえないどころか、窒息しそうになる。
イファルナは、ようやく息のつける場所――打ち捨てられた小さな教会を見つけた。
最近無人になったのか、中は意外ときれいで、ステンドグラスから入りこむ陽の光は、わずかに舞う埃を浮き上がらせているだけで、やさしく教会を包み込んでいる。閉鎖されたわけではなく、ただ誰も寄りつかなくなったという感じだ。
イファルナは祭壇の前の椅子に座り、ようやくひと息ついた。それだけで、あとはもう何もする気になれなかった。
彼は、死ねるのなら本望だと言っていた。
だが、その言葉を思い出しても、なんの慰めにもならない。
イファルナは互いの悲しみをわけあうように、娘をしっかりと抱きしめながら浅く不確かな眠りについた。
次の日も何もする気になれなかったが、陽が沈む頃になってイファルナはようやく行動を起こす決意をかためた。
ここにいて悲しみに暮れていても何もならない。
エアリスを抱きながら夕陽色に染まった床に直に座る。少女はまだぐずっていた。
「おじさんは星に還ったのよ、エアリス」
少女はうつむいたまま、こちらを見ようともしない。
「星の一部になって、星をめぐっているの。もしかしたらおじさんが、エアリスを約束の地に導いてくれるかもしれないわ」
「……え?」
呟くように言いながら、やっと少しだけ顔をあげる。
「セトラの民、約束の地へ帰る。至上の幸福、星が与えし定めの地……。覚えてる?」
小さい頭がこくんと下がる。神羅で、わずかに与えられた親子の時間に教えてもらったものだ。
「エアリスにもエアリスだけの約束の地があるはずよ。それを見つけないとね」
イファルナにとって、『約束の地』はアイシクルロッジだった。いや、ガスト・ファミレスその人だった。
「ミッドガルに着いて、驚いたわ。ここでは星の命が吸い上げられているだけで、星の恵みはいっさいないの。星の声も聞こえないなんて、長くいるようなところじゃないわ」
「それじゃ、これからまた、どこかに行くの?」
「ひとつだけ、あることをしたらね」
あの人がやり遺した唯一のこと。置き去りにされた孤独な子供を、神羅の手から救わなければ。
単身、神羅に乗り込むには勇気がいる。赤い眼の彼がいてくれたらと思う。だが、たとえ彼とともにミッドガルに着いていたとしても、それでもイファルナは一人で行動していただろう。
あの子供、セフィロスは、ヒトであることをいつ放棄してしまってもおかしくないほど大量にジェノバ細胞を有している。自分とセフィロス、さらにエアリスが接触しても、とくに何も起こらなかった。それは、互いに互いの
それが、あんな形で……。
イファルナは娘の頭を軽くなでた。
「あることって、なに?」
「……エアリスは、
「すごく広いところにいた子?」
「広いところ?」
言われて、少年と会ったときの簡素な部屋を思い出す。部屋は、決して広くなかったはずだ。
「まっしろで、ちょっと暗くて、壁がどこにあるかわからないくらいすごく広いお部屋に、イスがふたつあったの。その子、イスに座って、もうひとつの空いたイスをじっと見てた。そこに誰かが座るのを、座ってくれるのを、一人でずっと待ってた」
「エアリス……」
それは、少年の心象風景だろうか? 心を読むのでは決してなく、それでも的確に相手の心理状態を察知している?
「本当に、その子がそこにいるのを見たわけじゃないんでしょう? そう感じたのよね?」
「見えるようになったの。初めは、ガラスがはられてるみたいだったけど。何度か会って、そのたびに見えるようになったの」
まだ、エアリスには現実と幻視の区別がつかないのだろう。
「他の人も、そんなふうにだんだん見えてくる?」
やさしく問うと、エアリスはしばらくためらっていたようだが、やがて小さく頷いた。
「……おじさんも」
「えっ? 他の人は?」
「あとは、おじさんだけ」
首を振りながら呟くように答える。
この二人だけ見えたということは……。イファルナは、少しだけエアリスを抱く手に力をこめた。二人の共通点といえば、ジェノバ細胞だ。イファルナは、初めのうちはセフィロスに対して、ただどうしようもない嫌悪を感じた。それは会う回数をおうごとに薄らいでいったが、それでも会うときはいつも緊張した。赤い眼の彼にも、ジュノンで会ったときはわずかだが同じ嫌悪感を感じた。
エアリスにはそれがないかわりに、相手の心象をとらえてしまうのかもしれない。正確には、ジェノバを宿している者の心理状態を。その光景は、おそらくジェノバの侵食度をも表していのるだろう。
セトラがジェノバを見破る術を、彼女はこんなふうに受け継いだのだ。
急に、エアリスが泣きだした。
「……おじさんのこと、思い出したのね」
イファルナが優しく言うと、しゃくりあげながらかすかに頷く。
「だって……おじさん、少しだけ明るいほうに近づいたんだもん。それなのに……」
「明るいほう?」
少女は今度は大きく頷いた。
「おじさんは、まっくらなところにいたの。でも、すぐそばはすごく明るいの。いこうと思えばいけるのに、おじさん、自分で足におもりをつけて、いこうとしないの。おじさんが森で怪我したときも、ほんとはわたしが悪いのに、おじさん、自分のせいにして、また、おもりを重くしちゃったの。でも、リボンをあげたとき、お母さんが金色のあげたとき、少しだけ、明るいほうに近づいたの。でも……」
「エアリス……」
イファルナは、大きな瞳からこぼれ落ちる涙をふいてやると、揺りかごのように体を揺らした。
「大丈夫よ。おじさんは、もう、
彼は逃げろと言ったあと、「幸せに」と告げた。
幸せ……
エアリスと一緒に、あの人――ガスト――との思い出の地で暮らす。それがイファルナの幸福。
それにセフィロスが加わればもう言うことはない。彼がミッドガルに移されてずいぶん経つが、もしもあのままなら今が正念場なのだ。彼はあまりにも自分自身のことを知らなさすぎる。いつかジェノバの能力に目覚める時がくるだろう。だが、その能力を理解していなければ、膨大な力を制御しきれずに暴走してしまうことは目に見えている。柔軟な精神を持っている子供のうちに、きちんと自覚させて力を制御する術を教えなければならない。
それが、唯一ガストのやり残したこと。
自らの責を放棄してしまった彼にかわり、自分がやり遂げなければならない責務。
たとえ、セフィロスが自分とともに行くことを拒んだとしても、神羅の手からだけは救い出さなければならない。
「明日にはここをでるわ。そのとき、もしかしたら一人増えているかもしれないけれど」
「おじさん!?」
エアリスがぱっと顔をあげる。
「生きてたの、おじさん。明日会えるの? また一緒にいけるの?」
うれしそうにせっつく娘に、イファルナは悲しそうに首を横に振った。
「違うけれど……。もしかしたら、一緒に来てはくれないかもしれないけれど」
「だれ? あの男の子?」
そう聞いてはいるが、名前どころか顔もろくに覚えていなかったりする。
「ええ。エアリスは待っていてね。二人でも三人でも、明日にはここを出ましょう」
「一緒にいく!」
叫ぶなり、しがみつく。
「だめよ。ここなら何も恐いことなんてないから。ね?」
いまさら一人で一晩すごせないはずはない。寂しいのだろう。だが、連れていくわけにはいかない。
「すぐ戻るから」
「どこいくの?」
「遠くよ。電車に乗っていくの。だからおとなしく待っていて」
「いや! いっちゃだめ、だめ!」
突然、たまらなく不安になった。今手を離したら、二度と握れなくなるような。
イファルナは軽くため息をつくと、やさしく娘を抱きしめた。
「どうしたの? そんなに寂しいの? それじゃあ、ね」
そう言って、イファルナはポケットから真っ白な小さな球を取り出した。
「なぁに、これ?」
「これはね、マテリアだけど、なんの力も持たないの。でも、とっても大切なもの。わたしたち、セトラにとっては」
「きれい……」
小さくとも女の子である。エアリスはうっとりと白いマテリアに見惚れた。
「なくさないって約束できるなら、これ、エアリスにあげるわ」
「ほんと! うれしい」
「それじゃあ、大事にしまっておけるところを考えておいて。その間に、お母さん出掛けてくるから」
エアリスはあやうく頷きかけたが、はっとするとまた「だめ!」と言ってしがみついてきた。
「もう、仕方ないわね……。そうね、まだ疲れも残ってるし、今日は寝て、明日にしましょう」
そう言うと、エアリスはやっと手を離した。
木の床に粗い布を敷いて毛布を用意する。エアリスはイファルナの手を握りながら横になった。時間が早いせいか、まだ不安が残っているのか、すぐに寝つくことはなかったが、やがて穏やかに眠りについた。
娘が熟睡するまで待っていたイファルナはそっと起き上がると、エアリスの頬に軽くキスをして教会から出ていった。
手にしているのは、カームの街でガントレットと一緒に買ったロッドである。彼女はすぐに神羅に乗り込むようなことはせず、いくつもの店をまわってマテリアをふたつ買うと、スラム街をあとにした。戦時中の今は重要な労働源確保のため、スラムから“上”への交通は自由化されている。また、大半の工場がフル回転のため、交替の労働力を搬送する電車も、本数は少ないが深夜であろうと夜明け前であろうと関わりなく走っている。
セフィロスがいるのは、表向きは神羅製薬の研究所だった。彼女はヴィンセントのように多少なりとも下調べをするようなこともなく、夜明け前にいきなり研究所に乗り込んだ。ここも昼夜ぶっ通しで研究が行なわれているため、従業員用通用口は開いている。そこから中に入ると、当然警備員に呼び止められ社員証の提示を求められた。イファルナは緊張しながらテレポを唱え、とたんにそこの“関所”を通り抜けており、背後で警備員が「あれ?」と不思議そうな声を出しているのを聞いた。
ほとんど攻撃力を持たないイファルナは、戦わない侵入法をとったのだ。セフィロスの居場所は先導者がいるようにはっきりとわかる。問題は警備員くらいだが、それもテレポを使えば痕跡を残さずにその場をクリアできる。だが、侵入した場所が悪かった。問題はセフィロスではない、そこで行なわれている実験である。神羅は、戦争に起用可能な、コントロールの容易なモンスターの人口生成の研究をしていたのだ。当然極秘である。そのため、セキュリティも厳重になっている。だが、各所に設置されたレーザーすらテレポでクリアされるのを目の当たりにし、監視カメラで彼女の姿をとらえた警備員たちは、別の方法をとることにした。
イファルナはセフィロスがいる部屋の前に立ち、思わず
思ったとおり、ドアは静かに開いた。少年は来訪者に気づいていたらしく、明るい部屋の中央に泰然として立っていた。
「セフィロス……」
銀髪の少年は、イファルナの呟きを聞きながら微動だにせずじっと彼女を見つめている。こちらの出方を待っているのだ。イファルナはとっさに言葉を選べず、困惑しながら近づいた。確か十二歳のはずだが、落ち着き払った態度はとても子供のものとは思えない。
「イファルナ? 確か以前はなんの成果ももたらさなかったと、お前と会うことはもうないと聞かされた。宝条が、新たな実験項目でも思いついたのか?」
目の前に立ったイファルナに、よく通る子供特有のやや高めの声が尋ねた。
「……そんなところよ。とりあえず、出ましょう」
そう言って差し出した手を、すっとよける。
「無理にオレに触らなくていい。オレはなんともないが、オレの前に立っているだけてつらいんだろう? 行くところがあるなら手を引かれなくてもついていける」
赤い眼の彼を彷彿とさせる素気なさだ。
「わかったわ。それじゃあついてきて」
そう言ってイファルナは来た道を戻っていったが、どうしたのか、全く警備員と遭遇しなかった。これは……何か、ある。
「セフィロス」
出口まで来たところで、無言であとについてきていた少年の腕を取る。突然のことで、セフィロスにはよけることができなかった。先程は彼女のことを思うようなことを言ったが、本当は他人に触られるのが嫌なのだ。不快で退屈な実験の繰り返しがもたらした接触嫌悪である。けれども、彼女に腕をつかまれても嫌な感じはしなかった。というより、そんなものを感じている間はなかった。彼女の手は、こちらが驚くほど震えていた。
「何があっても絶対に逃げて。ここに戻ってはだめ。あなたのためよ」
「逃げる? 神羅から?」
半ば呆れたような驚きの声が返ってくる。
「騙してごめんなさい。これは実験なんかではなく、あなたを連れ出しにきたの。ここにいたらあなたはいずれ破滅するわ」
「……他に科学者がいないからおかしいとは思った。でも何故だ? オレは神羅になくてはならない存在なんだ。出ていくわけにはいかない。お前だって神羅の人間だろう」
言ったとたんに両肩を捕まれ、真摯な眼差がセフィロスをとらえる。
「神羅に恩など感じることはないわ! あなたは何も知らなさすぎる……。外側から見れば神羅の実体がよくわかるわ。わたしは逃げ出してきたの。逃がしてくれた人も神羅の犠牲者だったわ」
「神羅に不正行為があるのは知っている。でも、それは企業が企業として在るための必要悪だと思う」
セフィロスはごく真面目に淡々と言った。イファルナは、少年らしくないいやに割り切ったものの考え方や、あまりの感慨のなさに何か気になるものを感じた。
「人間を人間として扱わないことが必要悪なの? 神羅がしていることは常軌を逸しているわ。まるで自分たちが神になったとでもいうように、平気で人の命や心を踏み
「神?」
セフィロスは、奇妙な言葉に興味を示した。
「人間を、この世界を創ったといわれる存在よ。遠い昔に忘れられてしまったけれど。全知全能にして絶対の存在だったらしいわ」
「絶対の存在……」
「セフィロス、うまく逃げ切れたら、実験のない毎日が送れるのよ。自由に、神羅のためでなくあなた自身のために生きるの」
「オレのために……生きる?」
不思議そうな声音が返ってくる。
「あなただって、やりたことやなりたいものがあるでしょう」
問うと、セフィロスは黙ってしまった。端正な顔におさまった大きな緑色の瞳が、何か問いたげにイファルナに向けられる。彼は、おそらくとても頭がいいだろう。だが、情操教育がほとんどなされていないような気がした。神羅は、セフィロスを一人の人間とみなしていないのだ。ただジェノバ細胞を有する実験体として側においている。
「……神羅がそんなふうにあなたを育てたのね。やりたいことがないのなら、これから見つければいいわ。大丈夫。時間はたくさんあるのだから」
セフィロスは、少し驚いたような顔をした。
「そういえば、ずっと昔、同じようなことを聞かれたことがある。お前は幸せかって。何かやりたいことや、なりたいものがあるかって」
「そう。そういうことを聞く人が、少なくとも一人は神羅にもいたのね」
「……人間じゃ、なかった」
「え?」
「初めは、人間かと思った。でも、あれは……あれは、モンスターだった」
人間にそっくりなモンスター。イファルナははっとした。
「もしかして、眼の赤い人……いえ、モンスターだった?」
「そこまでは覚えていないけれど。……幸せっていうのは、何かやりたいことや、なりたいものがあることを言うのか?」
そんなことを真面目な顔をして聞いてくる。彼が必死であればあるほど切なかった。
「セフィロス……。目標や希望は、生きるのにとても大切な要素よ。それを見つけたかったら、神羅から離れなければだめ。――さあ、行きましょう」
差し出された手を取る前に、セフィロスはひとつだけ尋ねた。
「イファルナ……。どうしてそうまでしてオレを逃がそうとするんだ? いろいろと教えてくれたり。お前――あなたは、オレの、母親なのか?」
いろいろと教えた? 幸福について、希望や目標についてほんの少しだけ語ることが、彼にとってそれほど新鮮だったのか。神羅は、意図的にセフィロスから感情の芽を摘み取っているわけではないようだ。だが、積極的に育んでもいない。半端に育まれた感情のため、彼は自分で自分を理解することができないでいる。自分がどんな人間なのか。自分が何をしたいのか。自分が何を抱えているのか……
「あなたの母親だったらよかったのにって、心から思うわ。でも、違うの。あなたの母親は……ジェノバよ」
言ったとたん、ほとんど表情のなかったセフィロスに、初めて感情が走った。
「知っているのか!? ジェノバ……ジェノバというんだ。どんな
これがキイワードだった。セフィロスにとって、「母親」とはとても大切な存在であったのだ。彼は自分が特別な存在であることを知っている。頭脳や魔力、運動面においても同年代の少年たちと比べてはるかにすぐれた能力を有していることを。大人たち――各地から選りすぐって集められたはずの科学者たちからさえ、一目置かれていることを。何か特別な使命を担っているはずの自分を。少年は、そんな自分をこの世に生み出した女性のことを神聖視さえしていた。
「……残念だけれど、
イファルナは今真実を言うべきではないと判断し、とっさに言葉のトリックを使った。この言い方だといかにも生みの親はジェノバであるように聞こえる。実際に彼を生んだ女性科学者については、ガストからそう聞かされていた。
きらきらと輝いていたセフィロスの顔に、一瞬で影が落ちる。
「でも、ジェノバの能力はあなたの中にあるの。神羅はそれが欲しいのよ。だからあなたを育てているの」
「……母さんの、ジェノバの子供だから、オレは神羅にいるのか?」
「そうなるけれど……」
セフィロスの、喜んでいるようにも見える得意そうな顔を見て、何か間違った認識を与えてしまったような気がした。
「確かに、オレには神羅にいる理由はないけれど、神羅から逃げる理由もない」
「セフィロス――」
「本当は、ガスト博士を待っていたんだ」
誰にも言わなかった胸の内を告げているように、セフィロスはわずかにうつむき、どこか恥ずかしそうに言った。
「別に、あなたみたいに連れ出してくれることを望んでいたんじゃない。ただ、実験のためでもいいから、オレに会いに来てくれるのを待っていた」
イファルナは、それを聞いてエアリスの言葉を思い出した。
広漠な白い部屋で、目の前の椅子に
「セフィロス……」
銀色の頭がかすかに頷く。
「わかってる。博士はもうずっと前に亡くなった。もう、オレが待つべき人はどこにもいない。それに、あなたは命懸けでオレを連れ出しに来てくれた。だから……あなたについていくよ」
「ありがとう!」
うれしくて、少年を軽く抱きしめる。イファルナはすぐに向き直ってしまったが、もしもセフィロスの顔を見ていたら、実に子供らしく赤くなっているところを見ることができただろう。
「行きましょう」
ロッドを握りなおし、セフィロスの手をとって外への――自由へのドアを開ける。
外はまだ暗かったが、空には夜明けの気配が現われ始めていた。
数歩進んでも何もなかったが、突然セフィロスが危ないと叫んだ。イファルナがテレポを唱えるのと、銃声がしたのと同時だった。警備員は、彼女に魔法を唱える間を与えないために、物陰にひそみ、先制攻撃を仕掛けることにしたのだ。それでも間近であればイファルナなら逃げ切れる。そのため連中は、賊と充分距離の置ける外に待機していたのだ。
テレポでその場をクリアするその先で、別方向から攻撃を受けそうになる。イファルナはセフィロスの鋭敏な感覚を頼りに連続で魔法を唱え続けたが、幾度目かで魔力を使い果たしたことに気づかずに、テレポを唱えようとして失敗した。それに気づいたセフィロスがとっさに動いたが間にあわず、銃弾はイファルナの脇腹に命中した。
「イファルナ!」
セフィロスが倒れかかる彼女を支えて物陰に連れていく。離れた場所からの狙撃だったため、警備員が駆けつけるのに少しばかり間があった。
「……彼らは持ち場を離れたわ。今のうちに逃げなさい」
セフィロスは聞いておらず、イファルナのロッドにかいふくのマテリアがあるのを見つけて自分のバングルに装着すると、壁を背に座りこむイファルナにケアルをかけた。何度も、何度も。
「すまない……。オレ、訓練でも怪我したことなかったから、ほとんどケアルは使ったことがないんだ」
声に、初めて動揺が出る。
「だいじょうぶよ……。あなたが、もしわたしを突き飛ばしていなかったら、きっと、わたし、とっくに死んでいたわ」
「パートナーに怪我をさせないことも重要なんだ。なのに」
「もういいわ。ありがとう」
そう言いながら、イファルナはセフィロスが制するのも聞かずに立ち上がった。
「別々に逃げましょう。神羅はわたしを追うわ。だから、あなたは逃げて。絶対に捕まってはだめ。何があっても絶対に。わたしのことはいいから、自分のことを考えて。スラム行きの電車に乗って、その終点……七番街で落ちあいましょう……」
「今動いたらだめだ!」
両手をつかみ、必死に訴える少年を、イファルナはやさしく見つめてまた抱きしめた。今度は、しっかりと、強く。
「――本当に、わたしがあなたを生みたかった。そして育てたかったわ……」
「イファルナ……」
セフィロスは生まれて初めて「不安」を感じていた。彼女が平気な顔をして立っているのが信じられなかった。とりあえず出血はおさまったが、傷は完全にふさがったわけではないのだ。今動いたら確実に開く。処置が遅ければそのまま死が待っているのだ。
「わたしのためを思うのなら逃げて。神羅に残ったら殺されるわ。あなたの心が」
そう言い残してイファルナは駆け出した。追手をこちらに引きつけるために。
セフィロスはあとを追わなかった。逃げ切れないと思ったからではない。少年は、自分のために命を懸けてくれた女性のために、来た道を戻っていった。
「おい、あれ……」
「セフィロスか?」
警備兵が二人、こちらに駆け寄ってくる。
「セフィロス発見。無事のようです。女は以前不明、引き続き追跡を……うわ!?」
セフィロスは無線で報告している警備兵につかみかかった。
「助けるんだ!」
警備兵から奪ったマイクに思いきり叫ぶ。
「もしイファルナが死んだら撃った奴を殺してやる! オレにここにいてほしかったら絶対に死なすな!」
もう一人の警備兵がセフィロスを押さえようとする。だが少年はそれを振り払い、なおも叫んだ。
「まだ、あの人に教えてもらいたいことがたくさんあるんだ。だから……お願いだから、あの人を助けてくれ……!」
セフィロスは、生まれて初めて他人のために懇願した。
だが、夜が明けて研究所外を隈なく捜しても、結局イファルナは発見されることなく、このあと二度と姿を現すこともなかった。
目を覚ましたら、一人だった。エアリスは驚いて跳ね起き、昨夜、イファルナが電車に乗ると言っていたことを思い出して、人に道を聞きながら駅に走っていった。まだ朝早く、プラットホームの隅のほうに駅員がいるだけで、あとは誰もいない。待っている間、たまらなく不安だった。誰を連れてきてもいいから、絶対に仲良くするから、とにかくお母さんに戻ってきてほしかった。戻ってきて、出迎えにきた自分にうれしそうに笑って「ただいま」と言ってほしかった。
何人か人が集まり、電車が来たが、疲れた顔をした大人が二人降りただけで、すぐにまた出発してしまった。そんなことを何度か繰り返しているうちに、次第に乗るほうも降りるほうも少なくなっていった。ラッシュがすぎたのだ。
不安だけが募る。
もしかしたら、別の駅に降りてもう戻っているかもしれない。そうも思った。けれども、ここから動く気にはなれなかった。
もしもこれに乗っていなかったら……。そう思って見守っていた電車に見慣れた姿を見つけ、エアリスは弾かれたように駆けだした。
「お母さん! よかった、よかった――!」
しがみつくと、やさしい手がなでてくれた。
「エアリス……」
声はとてもうれしそうだったのに、それ以上にとても細かった。エアリスが
「お母さん!」
「ごめん……なさい、エアリス……」
何が「ごめんなさい」なのか、わからなかった。
「お母さん、もう、あなたとは行けない……」
“上”の駅で、少年を待ち続けた。手持ちのポーションがなくなり、さらに体力に限界がくるまで待ち続けたが、結局少年は現れなかった。神羅は、賊を捕らえることよりも実験体の確保のほうを選んだのだ。ゆるゆると底なしの絶望に落ちていきながら、イファルナは娘の意外な出迎えにかろうじて笑みを浮かべた。
「やだ! やだ!! お母さん、お母さん!」
エアリスは母親の体を揺すろうとして生温かいものに触れ、驚いて手を離した。掌が赤く濡れている。うまく服に隠れていてわからなかったが、上着の下に鮮血が広がっていた。
「お母さん! 死んじゃだめ!」
「エアリス……」
目にいっぱい涙をためて必死に訴える娘に、イファルナはそっと手をそえた。
「もしも、また、誰かをとおして不思議な光景が見えたら……おじさんを通して見たようなものが見えたら、絶対に、その人のそばから、離れてはだめ……。その人と一緒にいなさい。そして、その人を支えてあげて。その人は、何か、とても悪いことをしているかもしれないけれど……その人自身は、ぜんぜん悪くないの。その人の中にいるものが、その人に悪いことをさせているのよ。エアリス、あなたになら、きっと、その人の力になれる。その人の心が強ければ、悪いものは表に出ないの。だから、その人を支えて力になってあげて……」
「うん。わかったから、わかったから、ねえ、起きて、お願い!」
その言葉をすべて理解したわけではないが、そう答えるしかなかった。エアリスは泣きじゃくりながら、リボンに手をのばした。
「ほら……ここに、お母さんのマテリア、隠すことにしたから……。いつも持っていられるし、誰にもわからないよね、ねえ、お母さん……」
「エアリスは、おりこうさんね……」
もう一度なでたかったが、もう手をあげることはできなかった。
「お母さん! お母さん! 目を開けて!!」
「ど、どうしたんだい!?」
戦場から帰ってくるはずの夫を迎えに来た女性が、瀕死のイファルナを見つけて駆け寄ってくる。
「すみません……。この子を、エアリスを安全なところへ……お願いします……」
それがイファルナの、最期の言葉になった。
その光景を、遠くから見ている男がいた。
ヴィンセントである。
あのあとすぐに追いかけていれば、二人がいくらミッドガルのスラムに紛れこんでいても、彼なら見つけ出すことができた。二人は無事に目的地に着いているだろう、それならあえて姿を現すまでもない。言い訳だとわかっていて、自分にそう言いきかせていた。――その結果が、これだ。
どうしても気になってセトラの痕跡をたどったときには、もうイファルナは
必死になって捜した。だが、彼が当たりをつけた場所、神羅本社にはいなかった。彼女があえて娘を置いて行かなければならない場所といったら、これくらいしか思いつかなかった。あとは、彼女の目的もわからないまま本社ビルを中心に捜すしかなかった。
もしも、すぐにあとを追いかけていれば。
少女の悲痛な叫びを聞きながら、何度も何度も後悔した。……恐かったのだ。少女に、イファルナに、あの将校のように拒絶されることが。死んだはずの己を見て「化け物」と言われることが。だが、その恐怖も、イファルナの死という最悪の事態と比べたら、取るに足らないちっぽけな苦しみにすぎない。
たとえ拒絶されても、せめて二人が新しい土地に落ち着くまで見守っていればよかった。
自分は、いったい何をしたのだろう? そう自問する。イファルナの寿命を縮め、エアリスに深い悲しみを与えただけではないか?
自分が何もしなければ、二人はこんな運命をたどることはなかった。神羅にとらえられていたとしても、死ぬことだけはなかった。
――わたしは、また、罪を犯してしまったのか……
彼の手に残ったのは、赤いバンダナと金色のガントレット。そして、痛烈な悲しみと、深淵に広がる虚無――ただそれだけであった。