どこに逃げたいか問われ、イファルナはミッドガルに行きたいと答えた。
 神羅が神羅のためだけにつくりあげた街である。思わず怪訝そうな顔をしたヴィンセントに、あのプレートの下にはスラムが形成されており、そこならうまく紛れこめるから、と補足する。実際はアイシクルロッジまで行きたかったのだが、ミッドガルでどうしてもしなければならないことがあり、それにヴィンセントをつきあわせるには危険が伴うかもしれない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)ので、ミッドガルまででいいと言ったのだ。
 ヴィンセントは、追手に、反神羅の住民がほとんどというコンドルフォートに逃げるよう見せかけ、再びジュノンに舞い戻って船に乗って逃亡した――と、思わせて、一行はコンドルフォートすら通り過ごしグラスランドエリアに抜けていた。二重の偽装工作である。それがどれくらい功を奏しているかわからないが、今のところ追手とは遭遇していない。
 実際、神羅はセトラを使って“約束の地”を探す――ネオ・ミッドガル計画を続行する余裕などなかったのだ。数か月で終わるだろうと高をくくっていた戦争が意外と長引いているせいである。むろん諦めてはいないが、早急に追手をかけ、何がなんでも連れ戻さなければならないほど必要でもないのだ。……今のところは。
 ヴィンセントは母親の名がイファルナであり、娘の名がエアリスだとすぐに知ることになったが、決して名前で呼ばず、いくら聞かれても自分の名を名乗ろうとしなかった。そのため彼の呼び名は「あの……」であり「おじさん」であったが、無言で甘受していた。
 母親とこんなに長い時間一緒にいられたことなどなかったエアリスは、新たな盗難車に乗りこんでからもはしゃぎっぱなしで、傍から見るとまるで家族連れでピクニックに行く途中に見えなくもなかった。幸い季節は秋、気候が一番安定している時期であり、野宿も苦にはならない。食糧も小さな村々で購入できるので、あながちピクニック気分というのも見当はずれではなかったかもしれない。
 だが、それもミッドガルエリアに入るまでのことであった。魔晄炉周辺に強いモンスターが集まることは周知の事実だが、ミッドガルエリアは予想を上回るレベルのモンスターが闊歩かっぽ)していたのである。モンスター同士の淘汰の結果だ。だが、それもこのときがピークで、神羅軍の派遣に損傷をきたすことから本格的なモンスター狩りがすでに始まっており、やがて惰弱なモンスターが棲息するのみとなるのだが、今現在逃亡者である彼らにとって、そんな先のことはなんの慰めにもならなかった。
 とはいえ、イファルナはともかく、生まれてからずっと研究施設の中で育ったエアリスに、モンスターに対する警戒心や恐怖心はほぼ皆無であった。鋭敏なヴィンセントの感覚は、道中も野宿のときもモンスターが周囲にいない場所をいつも的確に見つけだせたので、襲われた経験がないせいもある。エアリスにも大人たちの緊張は伝わっていたが、「空飛ぶおじさん」がいるのだ、恐いことなどないといつも天衣無縫に振る舞っていた。
「水がもうないな」
 野宿の支度がすんだ夕目暗ゆうまぐれ)に、ヴィンセントはそう言ってプラスチック製の容器を手にした。この先の森のほうから水のにおいがするので、きっと小川か泉でもあるのだろうと推測し、そこから汲んでこようというのだ。
「遠いの?」
「いや、すぐそこだ」
 エアリスに問われ、ヴィンセントは不安がらせないために5分で戻るとつけたした。むろん、それは彼の脚力をもとに算出した時間である。
 二人の視界に自分の姿があるところまでは普通に歩き、あとは跳躍して水場を探す。思ったよりも手間取ったが清涼な小川を見つけ、一口飲んでみてから水を汲む。戻るのには行きの半分もかからなかった。
「あら、エアリスは?」
 言葉どおり5分で戻ったヴィンセントへの、イファルナの何気ない一言が、彼の心臓を鷲づかみにする。
「一緒にいくって、あとを追ったのだけど……」
 凍りついたヴィンセントを見、イファルナの顔に緊張が走る。
「捜してくる。あなたはここにいて、火を絶やさないように」
 早口に言いおいて、イファルナの前で通常の何倍もの速さで駆け出す。
 なだらかな山あいの視界が拓けたところに車を停めていたが、エアリスが追いかけたのは自分が車で二人の死角に入った直後だろう。普通なら少女の足でも充分追いつく距離だが、そのあとヴィンセントは跳躍している。当然いると思ったところに誰もいなかった、戻ればよかったものを、森に対して恐怖感がないため先に進んでしまったのだろう。
 彼女の気配は感じるしだいたいの方向はつかめるが、うまく距離を詰められないのか、居場所を特定できない。ヴィンセントから落ち着きを奪うのは、色濃くなっていく夕闇であった。首の後がちりちりと粟立つのは、付近に棲息するモンスターたちが活動を開始したことを示している。本当は、野宿をするときから森からモンスターの気配は感じていたのだ。だが、森のモンスターは普通森からでることはないため、あそこに車を停めた。
 まさか、子供がたった一人で夜の森の中に入るとは思いもしなかったのだ。
 すぐそこだと言ったのがいけなかったのか。
 彼女の好奇心の強さに気づかず、母親といるように釘をささなかったのがいけなかったのか。
 もしも彼女に何かあったら。
 ――わたしの責任だ。
 償いきれない罪を、またひとつ背負うことになる。
 次々と浮かんでしまう後ろ向きな考えをいくら振り払っても、焦りは消えない。
 秋の陽はつるべ落としとはよく言ったもので、あっと言う間に陽は空にわずかな名残りを留めるのみとなり、普通の視力では自分のまわりがかろうじて見えるだけとなる。急速な闇の侵食が、ヴィンセントの憔悴に拍車をかける。
 苛立ちは勘を鈍らせるが、比例するように聴覚や視覚は研ぎ澄まされていく。か細いながら「おじさん」と聞こえてうれしかったのはこれが初めてだった。
 その声を頼りに森の中を走る。ヴィンセントは夜目のきく眼で、小さな、とても小さな、それでもひとつの命が確実に息づいている少女をはっきりととらえ、心の底から安堵した。
「エアリス!」
 初めて少女の名前を呼んだ。エアリスがこちらを見る。
「おじさん!」
 エアリスは叫びながら暗闇の中、声がした方を一心に見つめ、こちらに近づいてきた。
「もう、大丈夫だ」
 エアリスにしがみつかれ、少女の無事をこの手に感じて初めて、ヴィンセントは自分がどんなに緊張していたのか思い知った。
「さあ、お母さんのところに戻ろう」
 そう言って少女の手を取る。
「よかった、見つかって」
 まるで、迷子になっていたのはヴィンセントのほうだと言いたげな口振りだった。そういえば、少女に怯えの名残りはまったくない。
「夜、森に入るのは危険だと言っていただろう」
 そうたしなめてみる。
「だから、いっしょうけんめい追いかけたのにいないから、何かあったのかと思って」
 やはり、彼女はヴィンセントを心配していたらしい。
「………。モンスターは、相手が子供でも容赦しない。今回は運がよかったのだ、もうこんな危険なことはしないでくれ」
「同じキケンでも、実験よりはいい。おじさんがいてくれるから」
 ヴィンセントの手を握る小さな手に、きゅと力がこもる。
 実験。そう、この少女は、この歳で、容赦ない神羅の科学者たちの実験台にされていたのだ。
 ヴィンセントははっとしたが、そのことには触れなかった。
「ねえ、ミッドガルについても……」
「しっ」
 そのとき、ヴィンセントはようやくモンスターの気配を間近に感じた。
 油断しているつもりはなかったが、気がゆるんでいたのは確かだ。
 群れるやつだ。いつの間にか囲まれている。全部で……5匹。
 闇と木が邪魔で逃げ切れない。とっさにそう判断し、銃を抜きエアリスをかばいながら大木を背にする。背後に安全地帯をつくったとき、モンスターがいっせいに襲いかかってきた。
 3発撃ち3匹倒したところで限界だった。4匹目の爪が利き腕をかすり、5匹目がヴィンセントを押し倒す。が、モンスターが獲物の喉元を噛み切る前に、まるで何かに弾き飛ばされでもしたかのように宙を舞った。
 5匹目が地面に叩きつけられて悲鳴をあげるのと、起き上がったヴィンセントに4匹目が攻撃を仕掛けるのと、同時だった。銃を構えようと腕を伸ばしたとき、モンスターの口が得物えもの)――ピースメーカーごと肘まで食らいつく。
 激痛に顔をしかめながら引き金を引く。にぶい銃声がし、モンスターの頭の半分がふっ飛んだ。
 エアリスが短い悲鳴をあげる。返り血をあびてしまったのだろう。
 だがそんなことに構っている暇はない。使いものにならなくなった右腕を無視し、左手で落ちた銃を拾いざま5匹目に標準をあわせる。忌まわしい手術の後遺症で、異形に変容してしまった左手では引き金を引くことはできないが、標準さえしっかりあわせられれば念動力で発砲できる。
 が、最後のモンスターはヴィンセントが狙いを定める前に逃げ出した。
 静寂が、おりる。
「お……おじさん……?」
 エアリスにとらえることができたのは、銃声と、どうっとモンスターが倒れる音だけだった。それと、強烈なにおい。そして顔に降りかかってきた、何かべしゃっとしたもの。
「……大丈夫だ」
 低い声が答える。が、それにはいつもの淡然としたところがない。ひどい痛みをこらえているような、押し殺した声だった。
 エアリスは濃厚な血のにおいに怯えながら、声がしたほうにそろそろと近づいていった。
ふいに何かが頬に触れ、びくりとして後退さる。だが、それがすぐにヴィンセントの左手だと気づくときつくしがみついた。ヴィンセントは決して左手で少女に、イファルナに触れようとはしなかったのだが、そのままひょいとエアリスを抱きあげると、高速で移動した。
 何度も木にぶつかりそうになった。ヴィンセントはそうなることがわかっていたので徒歩で移動していたのだが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。血のにおいをかぎつけて、次にどんなモンスターが襲ってくるかわからないのだ。実際、幾度か枝がエアリスにぶつかったが、ヴィンセントの腕やマントが護ってくれているので怪我をするほどではない。少女は黙って痛みに耐え、離れていくはずなのに少しもおさまらない血のにおいに怯え続けていた。
 戻ってきた二人を見て、イファルナは安堵する前に愕然とした。エアリスの顔や胸元にべったりと血のりがついていたからだが、それが返り血(実際降りかかったのは肉片だった)と知ると、ようやく安堵し娘の無事を素直に喜んだ。
「ありがとうございました、本当に」
 礼を言いながらヴィンセントに近づき、イファルナはもう一度ぎょっとした。
 ヴィンセントの足元に、血がしたた)っている。
「ふ……服を脱いで、すぐ!」
 うろたえながら叫ぶ。
「大丈夫だ」
 ヴィンセントは素気なく言ってわずかに退いたが、イファルナはそれくらいで引き下がらなかった。
「大丈夫じゃないわ! 座って――エアリス、トランクから薬をだして、早く!!」
 エアリスは弾かれたように車に向かい、薬を取ってくると、ヴィンセントが汲んできたばかりの水も用意した。
「君は、車にいなさい」
 まだ傷を見せることをためらっていたヴィンセントに言われても、少女は手伝うと頑張っていたが、彼の真意を察したイファルナにまで咎められ渋々車に引き揚げていった。
 少女が確かに車に入ったのを見届け、さらに車からは見えないように位置をかえて、ようやくヴィンセントはマントを取った。右の革手袋はほとんど原型を留めておらず、腕全体が血みどろだった。さらに、左は肘から手首にかけてぱっくりと裂けている。これはモンスターにのしかかられたときについたものだ。
「……じっと、していて」
 イファルナは震えてしまう自分を叱りながら、焚き火の明りを頼りにまず右の袖を裂き、水を惜し気もなく使って丁寧に傷口を洗った。
 普通なら咬み切られて当然だった。いや、その前に爪がかすったとき、すでに右腕は使いものにならなくなっていた。それがかなりひどいが裂傷ですんだのは、皮肉だがモンスターの細胞のおかげなのだ。それと、わずかに植えつけられたジェノバ細胞の。
「そんなに丁寧に治療する必要はない。この体は、治癒力にも長けている」
 本当は、あのとき変身していれば、傷など即座に完治していた。ただ、あの場で変身しようなどとは考えもしなかっただけだ。
 イファルナは続いて左腕を治療しようとしたが、ヴィンセントの拒絶にあった。
「放っておいたら切断することになるわよ!」
 半ば呆れながらたしなめる。そう言って改めて左腕を見、はっとした。裂けたところから人のものではない皮膚が見えた。イファルナは、彼がエアリスを遠ざけたのは、必ずしも血なまぐさいものを見せないためだけではなかったことに気づいた。
「大丈夫よ、わたしは……」
 ひとつ大きく息を呑み、ゆっくりと噛みしめるように言う。
「すまない」
 ヴィンセントは、一言詫びてから左手を差し出した。
 右手よりもひとまわり大きなサイズの手袋が外され、袖が切り取られる。露になった肘から下は、硬質化した暗色の皮膚に覆われていた。焚き火に照らし出されたそれは、炎の揺らめきにあわせて独自で息づいているように見えた。
「……神羅ね」
 イファルナは治療しながら涙をこらえ、呟いた。
「人間に、こんなひどいことができるのは、神羅だけだわ」
 彼がヒトにもジェノバにも思えなかった理由が、やっとわかった。彼の大半を支配している何か強いものとは、モンスターそのものだったのだ。今回はそれが彼の命を救ったが、それほどの力であれ彼が望んで手にした訳ではないと、数日だけだが行動をともにしていればわかる。
 いったい、神羅は何人の人間を犠牲にすれば気がすむのだろう。
「神羅にも、いろいろな人間がいる。現にわたしも元神羅だ」
 ヴィンセントは淡々と言った。イファルナははっとしたように彼の赤い瞳を見つめ、悲しそうな顔をするとかすかに頷いた。
「そうね。あの人も――エアリスの父親も、元神羅だったわ。そのおかげでわたしたちは出会って……そのせいであの人は殺されたわ」
「ヒトは、身に余る力を持った貧欲な動物だ。それが群れをなしたとき、星をも破壊することができる。――神羅のように」
「そう……ね」
 お互い、それ以上突っ込んだことは言わなかった。
 治療がすんでみると、ヴィンセントの姿は実に痛々しいものになった。
「本当は、ケアルをかけるか、医者に)せたほうがいいと思うけれど」
 ヴィンセントの言うとおり治癒力はずば抜けているらしくすぐに出血は止まったが、傷は一ヵ所や二ヶ所ではない。動脈に沿うようにざっくりと裂けているものもある。本当は縫わなければならないのを、消毒して包帯できつく縛っただけなのだ。
「いや、これで充分だ。それよりお腹をすかせているのではないか?」
 そう言って車をちらりと見る。ヴィンセントは自ら歩み寄って左手で車のドアを開けた。とたんに、エアリスが飛び出してくる。
 少女は三角巾に吊るされた右腕と、左腕に巻かれた包帯につらそうな眼差を向け、深々と頭をさげた。
「ごめんなさい、おじさん」
 迷子(という自覚は本人にはなかったが)になってもモンスターに襲われても、泣くことのなかった少女の目に、涙があふれていた。
「もうなんともない。これから食事をつくるから、お母さんを手伝ってあげなさい」
「おじさんのほうには、何かお手伝することはないの?」
「いや……」
 そう言いかけ、なんでもいいから自分の役に立とうとしている少女を見て、別の言葉に置き換える。
「それなら、車のトランクから黒い袋を取ってきてくれないか」
 うん、と頷いて駆けていくエアリスを、本人も気づかずかすかな笑みを浮かべて見送り、念動力でヘッドライトを点けて灯りの中に腰掛ける。
「あとは、もういい」
 駆け足で戻って来たエアリスから袋を受け取りながらそう言って、拳銃を取り出す。
「わたしがふく!」
 黒い銃身に血のりが見えたのでそう言った。が、差し出された手はぴしゃりとはたかれてしまった。
「子供に扱えるものではない。もういいから、向こうへ行きなさい」
 素気ない言葉。ヴィンセントは膝で銃身を支えて左手で器用に弾丸を取り出すと、手袋をつけたまま点検と整備を始めた。怪我をしたばかりだが、痛がるようすもなく細かい作業を続ける。
「傷がついちゃったね」
 邪険にされてもめげることなく、エアリスは両手を膝の上に乗せてのぞきこみながら呟くように言った。
「問題はない、ちゃんと使える」
 また素気ない返事。それでももう邪険にされることはなかったので、好奇心旺盛な少女は熱心にヴィンセントの手元を見ていた。
「ね、左のおてても怪我してるの? 大丈夫?」
 小首をかしげながら尋ねる。
「いや、怪我をしたのは腕だけだ」
「でも、なんだか包帯の上に手袋してるみたい。なんだかごわごわしてる」
「これは、違う」
「ふぅん」
 落ち着き払った答えに、エアリスはそれ以上突っ込んで聞こうとはしなかった。
「――ねえ」
 しばらく続いた沈黙を破り、再びエアリスが口を開く。
「おじさんの)の色って、前はどんな色だったの?」
「……?」
 今度ばかりは言っている意味がわからなかった。
「はじめから赤かったんじゃないでしょ?」
 つけたされた言葉に思わず作業している手が止まった。そういえばそうだったかもしれない、そう思った。
「……赤い眼は、珍しいか?」
 手を止めたのは少女の言葉のせいではないと言いたげに、髪をかきあげる。
「めずらしいの? わかんないけど。違うならいいの」
 そのときイファルナに手伝いに呼ばれ、エアリスは駆け出していった。
 ヴィンセントは半ば途方に暮れたように、少女の後姿を見送った。
 前の――手術を受ける前の自分。本当に、覚えていない。
 むろん、何があったか、何をしたかは覚えている。だが、容姿はどんなだったろう?
 髪はもっと短かった。……はっきりしているのは、それだけかもしれない。
 ふいに、圧倒的な孤独感がヴィンセントを襲った。
 覚えていたところでどうなる訳でもない。もう二度と、以前の自分に戻ることは決してないのだから。
 普通の能力ちから)しか持たない、当たり前に歳をとる、ごくありふれた人間には。
 ヴィンセントは、また落ちてきた前髪をかきあげようとして、額に――いや、瞼に押しあてた手をしばらく動かすことができなかった。

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