はるかなる呼び声

 





 誰かが呼んだような気がした。
 声がしたのだ。
 求めているのは必ずしも自分ではない。だが、誰かを呼んでいる。
 その声を聞いた。



 前にも一度、あった。
 呼んでいたのは、まだ年端もいかない小さな子供。
 自分が何を抱えているのか知らず、何を求めているのかも気づかない、あまりにも脆い自己基盤の上に強い意志を宿らせた子供だった。
 彼は自分を見てわずかに瞠目どうもく)し、そして言った。
「人間かと思った」――と。
 その言葉を否定も肯定もせず、尋ねた。
「きみは幸せか」と。
 子供はわずかに眉をひそめ、無言だった。不躾けな問いに不快になったのではなく、問いの意味がわからないようだった。
 子供には、幸も不幸もなかったのだ。
 だが、ここにいたいと言った。ここで待っている人がいると。
 だから彼を連れ出さなかった。子供が育つにはいい環境だとは決して言えないところだと、わかってはいたが。



 あれからどれくらいの月日が流れたのだろう。
 ヴィンセントは悪夢から引き離される感覚に眉根を寄せながら、ぼんやりと思った。わずかな身じろぎしか許されない冷たい寝床に、光はいっさいない。だが、完全なる闇のほうが、今まで彼が身を置いていた悪夢の数々に比べたら、どれくらい心安らぐかわからない。
 彼は手を使わずに棺桶ベッド)天蓋ふた)を開けると、ゆっくりと起き上がった。そこには以前と変わらない景色があった。自分と同じ処置をされていたらしい実験体が入っていたと思われる、いくつかの蓋の開いた棺桶、赤黒く変色した壁、地下にありながら異常なほど乾燥した、それでいて重苦しい空気、質量を持っているかのような圧倒的な静寂。
 ヴィンセントは、皮肉めいた笑みを浮かべながら顔にかかっていた髪を払った。
 だいぶ、伸びた。爪も髭も時を止めているのに、髪だけは伸び続ける。それが、唯一、彼が決して不老ではない証であった。
 ヴィンセントは神羅屋敷の2階の窓から外に出、屋敷の屋根の上に立った。
 半円を描きかけている月が沈むところだった。
 人間は安息の眠りにつき、モンスターが活動を開始する時間。
 彼はおもむろに北を見、小さな村を威嚇するようにそびえる山を一瞥した。
 アレは、まだあそこにあるのだろうか。
 疑問に思う間もなく答えを感じる。自分の中の何かが叫んでいる――戻りたい、ひとつになりたい、と。だが、その叫びは、彼の内にひそむ闇を愛する狂暴な力の前では無きに等しい。それすら――ジェノバ細胞よりも、モンスターの細胞よりも、なお強いのがヴィンセントの意志の力であった。
 彼を起こした声は、意外と遠くから――大陸を横断し、海を越えた巨大な街、ジュノンからしていた。
 静かで小さな漁村の上に神羅が造りあげた鋼鉄の街。街としてはかなり新しいが、すっかり神羅の色に染まっている。重工業を中心に発展し、賑やかで、人に浪費を促すことに長けてはいるが、戦争が勃発してからは軍港としての様相も呈しているためか、街全体が常に緊張状態にあり、ミッドガルのように堕落はしていない。
 そんな巨大な鉄の檻の中に、声の主はいた。
 わずか1日でジュノンに到着したヴィンセントは、月が沈むのを待ち、常人には決して持ち得ない跳躍力を駆使して直立する壁づたいに)び、声がする部屋の窓辺に立った。もちろん鍵が――普通の鍵ではなく錠前に近いものだったが――掛かっていたが、ヴィンセントにとって、あの忌まわしい手術以来、鍵などいくら厳重でも全く意味をなさなくなっている。
 あっさりと鍵を外して中に入る。意外と広い、だがひどく簡素な部屋には、女が一人緊張した面持ちで立っていた。
「だれ!?」
 誰何すいか)する声は、震えてかすれていた。ベッドのサイドテーブルにしつらえてあるスタンドが淡い灯りを放っているだけで、部屋の四方は闇に沈んでいる。
「あなたの呼び声を聞いてやって来た」
 ヴィンセントは窓を慎重に引き下ろし、ほとんど降り立ったところから動かず、落ち着き払った声音で言った。
「誰も呼んでいないわ。いえ、呼んだ人がいるのね。わたしを殺すように」
 声の主は窓から一番離れた部屋の隅に立ち、覚悟を決めたような口調で答えた。
「わたしはあなたが誰なのか、何故ここにいるのか全く知らない。ただ誰かの声がわたしの眠りを覚ました。わたしはその声を追ってきたのにすぎない」
「人違いよ。あなたなど呼んでいないわ」
「いや、呼んでいた。むろんわたしではなく、誰でもいい“誰か”を。自分の望みを叶えてくれる存在を。わたしにそれに応える能力がないのならば消えるだけだ」
 彼女――イファルナは、しばらく黙って、暗がりの中で突然の闖入者を探るように見つめていた。
「あなた……なんなの、、、、)?」
「お互い、名乗らないほうがいいだろう」
「違うわ、そうじゃなくて――人間、なの? ジェノバかと思ったけれど、もっと強いものがあなたを支配している……?」
「どう思おうとあなたの自由だ。あなたに危害を加えるつもりはないが、信じてもらえないのなら、わたしがここにいる意味はない」
 ヴィンセントの声音はあくまでも落ち着き払っていたが、彼もまた彼女が自分に感じているであろう同じ感覚を味わっていた。それは、ごくわずかだが、敵対者に対する憎悪にも似た苛立ちだった。イファルナは、ジェノバに敵対する者、セトラだったのだ。だからこそ神羅にとら)われているのだろう。そして、だからこそ逃げ出したがっている。
 敵対者――セトラの声だからこそ、ヴィンセントの眠りを覚まさせるに至ったのかもしれない。
 イファルナはしばらく考えこんでいた。自分を殺すつもりなら、もうとっくにやっているだろう。それとも、これも宝条の気紛れな実験のひとつなのだろうか? ジェノバ細胞を持つ者と自分セトラ)を接触させて、互いの変化を調べようというのだろうか。だが、それならすでにセフィロスとさんざんやったはずだ。成果は何もなかった。それとも、目的は別か?
 イファルナは反射的にきつく肩を抱きしめた。エアリスの父親は優秀な科学者だったが、ごく普通の人間だ。だから、わずかとはいえジェノバ細胞を持つ男と、セトラの血をまぜようと……? 否定したいが、宝条なら思いつきそうな発想だ。
「言葉で言うことしかできないが、わたしはあなたを傷つけるつもりも、指一本触れるつもりもない。消えてほしければ、一言そう言ってくれればいい」
 イファルナの仕種しぐさ)を正確に判断し、ヴィンセントは淡々と言った。
「呼ぶ声がしたと言っていたけれど、なんて言っていたというの?」
「ここから逃げたい……帰りたい、あの場所に――あの時に。もう一度」
 ほとんど抑揚のなかった声音に、初めて感情がにじんだような気がした。
 ――この人も、同じ思いをいだいているのかしら……
「残念ながら時を遡ることはできないが、あなたの望む場所に連れていくことはできる」
 この、やや気障な言葉を聞いてイファルナは決断を下した。
「……信じるわ、あなたを。このままここにいるよりは、あなたに賭けてみます」
 ヴィンセントはただ頷いて、それに答えた。
「娘がいるの。彼女も一緒に」
 イファルナは、自分からヴィンセントに近づきながらささやいた。
 その一言で、鍵が掛かっているとはいえ、比較的簡単に開閉可能な窓のある部屋に、何故大切な実験体を監禁していたのかわかった。娘がいれば逃げるはずも自殺するはずもないとわかっていたからだ。
「どこだ?」
「この棟だけど、わからないわ」
「わかった。とりあえず、高いところは平気か?」
「え?」
 イファルナが聞き返している間に、ヴィンセントは窓を押し上げた。
「もしかして、ここから飛び降りるの?」
 イファルナは窓から身を乗り出し、底の見えない闇に固唾を飲んだ。
「あなたは目を閉じていればいい」
 ヴィンセントは素気なく答えながら、するりと窓から出る。イファルナも意を決したように一度頷くと、ぎこちなく窓をくぐった。
 窓一枚向こうかこちらかで、世界は一変することをイファルナは初めて実感した。足の半分もない窓枠が自分を支えるすべてなのだ。あまりの頼りなさに、風の強さに、そして高さにめまいを起こしそうになる。
「大丈夫だ。目を閉じて」
 あくまでも落ち着き払った口調と、さりげなく、だがしっかりと支えてくれていた腕に気づいて、ようやく赤い眼の男を全面的に信頼する気になった。
「失礼」
 イファルナが大きく息を吸い込みながら目を閉じると、ヴィンセントはそう言いながら素早く彼女を抱きあげ、いきなり飛び降りた。悲鳴をあげる間もなかった。ふわりと体が浮かんだと思った瞬間、二人は風の中にいた。何が起こっているか悟ったときには、もう、着地していた。
「ゆっくりと目を」
 言われて恐る恐る目を開けると、そこは地面ではなく、2メートル程せりだした1階の屋根の上だった。
「……まるで、手品みたいね」
 呆れているようにも聞こえるイファルナの呟きに、ヴィンセントが顔にかかった髪を払いながらぼそりと言う。
「わたしは、サーカスにいる気分だ」
 冗談だったのかどうか考えていると、ヴィンセントはウケがなかったことを気にしたふうもなく、屋根の奥を示した。
「次の巡回が来るまでまだ時間があるが、念のため隅で身をひそめていたほうが安全だ」
「あ……はい」
「娘の特徴は?」
「わたしのと同じ栗色の髪と、緑色の目よ。まだ7歳だけど、とてもしっかりしているわ」
「彼女もセトラか? そのわりには、あなたと同じ気配を感じられないが」
「父親は普通の人間なの。ハーフ、というわけだけれど、セトラの能力をほとんど忠実に受け継いでいるわ。それが、あの子にとって不幸の始まりとなってしまったけれど」
 それを聞いてヴィンセントは軽く頷いた。
「そういうことなら、居場所はわかる。その子に、わたしのことをすぐに信じてもらえるようなものがあるか?」
「それなら、これを」
 イファルナは、そう言って長い髪を結っていたリボンを外した。
「これを渡せばわかってくれるわ」
「わかった。もし警報が鳴ってもあわてることはない。必ず、あなたたち母子おやこ)を連れ出してみせる」
「どうしてそこまでしてくれるの? 見つかっても、わたしたちが殺されることはないわ。でも、あなたは……きっと身体を調べられて、殺されるわ」
 赤い眼がわずかに細められたような気がした。
「わたしにとって、死は畏怖すべきものではない。むしろ、安息をもたらすもの。現在も未来もなく、ただ過去にとどまるしかなかったわたしにとって、現在で死ねるのなら、そしてあなたたちが新しい未来を歩んでくれるのなら、何も惜しくはない」
 ヴィンセントはそう言って跳躍した。イファルナは、赤い眼の男の気障な台詞に返す言葉もなく、常識はずれな跳躍力に瞠目しながら翻ったマントが消えるまで見つめていた。



 部屋の見当はすぐについた。窓辺にへばりつくことも容易だった。だが、中に入ることはできなかった。はめ込み式の窓で、ご丁寧なことに防弾ガラスだ。それでも割ることはできたが、警報が鳴り響くことはわかりきっていたので、内側から行くことにする。
 すぐ下のフロアはイファルナのところと同じ窓だったので、そこから潜入し、薄暗い廊下にでる。それほど警戒は厳重でない。セトラを重要視しているのは神羅だけなのだから、当然といえば当然だが。
 目的の部屋の前まで来て、ヴィンセントはわずかに眉をひそめた。
 ドアノブがない。代わりに、計算機のようなものがついている。棺桶ベッド)天蓋ふた)を開けたり、見慣れた鍵を開けるくらいなら、あの忌まわしい手術以来身についてしまった念動力を駆使できるが、構造がわからなければお手上げである。
 眠りについて十数年。時代は進歩している。ヴィンセントの思いつきもしないものが、登場していないほうがおかしい。
 だからといって、これではどうしようもないと手ぶらで戻るわけにはいかない。こうなったらドアを破るしかないが、ヴィンセントが躊躇ちゅうちょ)したのは部屋なか)にいるのが7歳の少女だという点であった。いきなりドアが破られ、警報が鳴り響く中、見知らぬ男が現われれば、ほぼ確実に泣くだろう。泣く子を連れていくなど、追手を先導しているようなものだ。かといって、ヴィンセントに泣く子を黙らせるなど不可能に近い。
 それでもやるしかない。
 意を決して手をのばす。思ったより簡単に計算機かぎ)は壊れた。とたんに、甲高い警報が頭上にあられ)のように降ってくる。
 素早く中に入ると、少女――エアリスは、イファルナと同じようにドアから一番離れたところで、淡い灯りの中、ヴィンセントを見上げていた。
 幸い、まだ泣いていない。
「助けにきた。お母さんが待っている」
 とりあえず安心させるためにいきなり言う。
「お母さんのリボンだ」
 怯える間を与えないように、つかつかと大股で近づきリボンを差し出す。こういうとき、視線を等しくすればさらに子供を不安がらせずにすむものだが、そこまで思い至らないのがヴィンセントである。
「あっ、ほんとだ」
 幸いなことに少女は自分を見下ろす大人の視線には慣れっこになっていたので、素直にリボンを受け取りながら満面に笑みをたたえた。ヴィンセントの不安は杞憂に終わったようだ。
「じゃあ、おじさんがわたしたちを助けてくれるの?」
 無邪気な一言が、一瞬、ヴィンセントを奈落に突き落とす。
 おじさん……
 ヴィンセントが二十代半ばで眠りについて15年。外見の見端みば)はいいが、彼の実年齢からかんが)みれば、少女よりも年上の子供がいて当然、この無邪気な呼びかけに対して免疫ができているのが普通なのだ。が。15年分の経験がすっぽ抜けている彼にとって、気分は外見どおりなのである。二十代半ばで「おじさん」呼ばわりされるのは、さすがにショックだった。
 一方、エアリスにとって、名前の知らない男の大人はみんな「おじさん」で通用していたので、悪気などなくごく普通に話しかけたのにすぎない。若い研究員にそう呼びかけても、名前を教えてくれることはあったが、あえて否定する者などいなかったのである。
 警報が、ヴィンセントに訂正させる間を与えなかった。
「……しっかり、捕まっているように」
 気を取り直してエアリスを抱きあげ、マントに包む。精神を集中させ、少女を中心に自分を取り巻くようにサイコフィールドを張り、そのまま窓に突進する。体が窓に直接触れることなく防弾ガラスが詰まった音をたてて割れ、ヴィンセントは勢いよく外に飛び出した。
 が。とっさにしまったと思った。思ったよりも大きく放物線を描いており、その先はジュノンをぐるりとそびえる塀の真ん中辺りだ。一旦、母親のところに少女を連れていくつもりだったが、ヴィンセントは落ちながら予定を変更し、体勢をかえて脚を突き出すと、塀を思いきり蹴りあげた。
 モンスターの力を有する両脚は見事に数十メートル落下の衝撃に耐え、その加速度はそのまま上昇の勢いに転じ、数メートルの塀を軽々と飛び越え、ジュノンの郊外に広がる草原にきれいに着地した。
 無茶をしすぎたかと思いながら少女をおろすと、きらきらした瞳で見つめられ、がしっと両手をつかまれた。闇夜に包まれてはいるが、ジュノンが派手に“ライトアップ”してくれているおかげで、夜目よめ)のきかない少女にもあたりを見ることはできる。
「すごーい!! 今、わたし、飛んだの!? 落ちてくと思ったら、急にフワッて! おじさんすごい!」
 ヴィンセントは顔にかかった髪を払いながら、少女の歓声を聞いていた。
「……向こうの木のうしろに、車が停まっている。そこに行っていなさい。お母さんを連れてくる」
 またしても訂正する間もなく興奮さめやらぬ少女を盗難車に向かわせ、自分は助走もつけずに跳びあがり、再びジュノン内に姿を消した。
 ヴィンセントがイファルナを連れて戻ってもまだエアリスは興奮したままで、母親に自分が経験したことをうれしそうに話して聞かせた。
 神羅を敵にまわしてしまったことに怯えられるよりは、ましか。
 ヴィンセントはそう思いながら、逃亡者という実感もなさそうに喋りまくる少女に自分の名称を訂正することはとうに諦め、ひたすら車を運転することに専念した。

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