ふたつ石の魔法



「ねえ、そのテディ・ベアの……ガウのアニキの名前は、なんというの?」
 朝になり、ガウの部屋に戻ったところで、マッシュは古いぬいぐるみを目で差して訊いた。
「なまえ? そういえば、ない。レネーのあにきのなまえ、なんといった?」
「エド……ううん、ロ……? あれ……?」
「どうした?」
「なんだったかな……」
 顔はすぐに思い出せるが、何故か名前がでてこない。
「いつも名前を呼んでいたはずなんだけれど」
 常に自分の前を歩いていた兄。呼べば必ず応えてくれた――。
「思い出せないみたい」
「そうか。レネーのあにきのなまえ、おいらのあにきのなまえにしようと思ったけど、思い出せないならいい」
「うん、ごめんね」
 それきり、再びガウに質問されるまで、マッシュはエドガーのことを思い出すことはなかった。一心同体のように、常に心の大半を占めていたはずだったというのに。
 その日はガウにとても馴れている小さな獣と一緒に遊んだ。だが途中で突然獣が逃げだし、どうしたんだろうと言うマッシュに、ガウは近くの木に登って彼方を指差した。
「え? なに?」
 ガウのように木に登れば見れるのだろうが、さすがにその自信がない。するとガウが飛び降りて、マッシュに木登りの仕方を教えてくれた。初めてのはずが、自分でも驚くほどうまく登れて、マッシュは獲物を仕留めようとする大型の獣の狩りのようすを見ることができた。
「わぁ、すごいね……」
 遠目でも充分迫力があり、さすがに言葉を失う。
「あれがおやじのしごと。獣にもいろいろいる。でも、自分のかぞくをまもるためにいのちをかける。あのえものは、いちばんにこどもにやる。それでこどもは喰いかたと、狩りのしかたをおぼえる」
「へえ……」
「レネーのおやじは、狩りはしないか?」
 ガウは木から下りながら訊いた。
「父上? ぼくの父上は王様なんだ。狩りはしないけれど、国をおさめているの」
 マッシュもみようみまねで下りていく。
「おうさま……いちばんえらいやつのことか?」
「うん。いろいろ大変みたい」
「くにってなんだ?」
「ええと、たくさんの人が集まって暮らしてる場所、のことかな」
「そのなかで、狩りしなくてもいちばんえらい、レネーのおやじ、すごい」
「ぼくもそう思うよ」
「あにきはどんなやつ?」
 すとん、と地面に下り立ち、ガウは自分と同じように飛び降りるマッシュに屈託のない顔を向けた。
「アニキ……ぼくたち双子だけれど、アニキのほうが毅然としていて、ものごしも、こう、優雅で、お喋りもとてもうまいんだ。手先も器用でね、機械いじりが趣味なの。小さな歯車とか滑車とかをいくつも組みあわせてね、いろいろ不思議なものをつくってしまうんだ」
 ガウの知らない言葉がたくさん飛びだしてきたが、マッシュがあまりにもうれしそうに話すので、ガウは話の腰を折らずに最後まで聞いていた。
「レネー、おやじよりあにき好き?」
「え……ふたりとも好きだけれど、うん、どちらかだったら、おやじよりも、アニキのほうが好き」
 それほど好きな兄の名を何故忘れてしまったのか、何故忘れても平気なのか、ガウには不思議だったが、あえてそのことを訊こうとはしなかった。
 ガウにもあにきがいるが、決して喋ることはない。自分のために何かをつくってくれることも、いっしょに木登りをすることも……。
 ガウは、自分がずっとひとりで生きてきたことを、なんとなく自覚した。
 その夜も、ふたりは外で寝ることにした。
「どうしてかなあ、やっぱり眠くないよ」
 マッシュはそう言いながら横になり、ガウの毛布にくるまった。
「そうか? ガウもうへとへと。いっぱいいっぱい遊んだ。レネーといると、いつもよりお腹すいて眠くなって、きもちいい」
 ガウの言葉に、マッシュはそういえば、と思った。今日も呆れるくらい遊んだのに、少しもお腹がすかなかった。もちろん食べたものはどれもとてもおいしかったし、気持ちはとても充実しているのだけれど。
「おかしいな、ぼくもお腹すいて眠くなって当たり前なんだけれど」 
「レネー、まだ遊びたり――」
 笑いながらのガウの言葉がそこで凍りつく。
 確かにそこにいたはずのマッシュは、くるまっていた通りの毛布のふくらみだけを残して、いつの間にか消えていた。
「レネー?」
 ガウはすぐに飛び起き、岩山の下や部屋に戻ってさんざん捜したが、結局マッシュを見つけることはできなかった。


 マッシュにとっては、眠くなかったはずが目を閉じて開けてみたら、もう朝になっていた、そんな感じだった。何かいやな夢を見ていたような気がするが、全然覚えていない。
「気持ちいい、こんなにすっきりと目が覚めたのってはじめてだ」
 朝陽のまぶしさに目を細めながら、マッシュは隣を振り返った。
 ……誰も、いない。そういえば、かかっていたはずの毛布もない。
 ガウの部屋に戻ると、部屋のベッドにガウが「あにき」を抱いて悄然と座りこんでいた。
「ガウ、おはよう」
 マッシュが明るく挨拶をすると、ガウが目をいっぱいに見開いて突進してきた。
「レネー! どこにいた? ひとばんじゅうさがしたぞ」
「え? ずっと寝ていたよ」
 小首を傾げ、きょとんとして答える。
「でも、いなかった。おいら、レネーが大トリにさらわれたか、山からおちて、食べられたのかとおもった」
「またぁ、いくらなんでも……」
 そう言って笑おうとしたが、ガウの目は少し潤んでいて、決して冗談を言っているのではないことがわかった。
「ガウ、ぼくほんとうにずっといたんだってば。ガウがいなくちゃぼくどこにもいけないじゃないか」
 マッシュの言葉に耳をかさず、ガウは大きく首を振った。金色の瞳から涙がぽろりと落ちた。
「レネー、うずからきた。アウインが、うずのことを、“じげんのゆがみ”だといった。どこか遠くとあの崖がたまたまつながって、それで獣ヶ原にいない獣がくるって。でも、いままで、ヒトがきたことはなかった。ガウにはわかる。レネー、なんだかここにいないみたいだ」
「いないみたいって、ちゃんとここにいるじゃないか。もしかしたらガウもぼくみたいにどこかからきたのかな? それならガウの両親、どこかにいるかもしれないよ」
「え?」
 瞬きがガウの涙を払う。
「だから、ガウもあのテディ・ベアと一緒に、どこかずっと遠くからここにきちゃったのかもしれないって。だからモブリズの人に聞いてもわからなかったんだ。だって、それ以外に君が一人きりでこんなところにいるわけないじゃないか」
「じゃあ、おいら、どこからきた?」
「それはわからないけど……。そのテディ・ベアに何か手がかりがないかな?」
 言いながら、マッシュはガウからぬいぐるみを取り、耳についているラベルを確認した。
 だが文字がかすれてほとんど読み取れない。
「うーん、これじゃあわからないけれど、それを持っていたのなら、きっとガウここで生まれたんじゃないよ」
「ガウのことはいい」
 その口調が思いのほか冷めたかったので、マッシュははっとして息を呑んだ。人の過去を探るなど、自分がとてもぶしつけに思えて急に恥ずかしくなる。
「レネーがいればいい。おなかすいた。ごはんごはん」
 ガウが笑顔でそう言ってくれたので、マッシュはほっとしながら頷いた。
 朝ごはんはほしにくと果物だった。ガウの部屋近くの細い道を少し下りるとひんやりとした貯蔵庫があり、そこに食べ物や薬草など、いろいろなものが保存されていた。保存の仕方はアウインに教わったらしい。
 さらに下にいくと地底湖があり、きんきんに冷えた水がたゆたっていた。ガウは、どうしようもなく暑い日はここで過ごすのが一番だと太鼓版をおした。それに、怪我をしたりお腹をこわしても、ここの水で傷を洗ったり飲んだりすれば治りがだいぶ違うとも。そのことは獣たちもよく知っていて、たまに先客がいるらしい。
「獣のなかに、すがたをけすやついる。レネーもそれとおなじか?」
 当人と違い、ガウはマッシュが突然消えたことをずっと考えていた。
「だから、消えていないってば。眠くはなかったんだけれど、目をつむったら眠ったみたいで、気がついたらもう朝だったんだ」
 マッシュは他人事のように干し肉を頬張りながら、のんびりと答えた。
「でも、いなかった。レネーのおやじ、すごくえらい、もしかして、レネーに、敵からの隠れかた、おしえているかもしれない」
 ガウにしてはめずらしく、朝食に手がのびていない。それくらい衝撃を受けたし真剣だった。
「おやじ? ぼく、ガウと同じでおやじなんていないよ」
「え? でも、おふくろはいなくて、おうさまのおやじならいるっていった。それならリョウリチョウがおしえたのか?」
「リョウリチョウってなに?」
「料理をするヒト、そういってた。……だいじょうぶか、レネー?」
「ぼく、そんなこと言ったかなあ。なんだかもうずっとここにいるみたいだから、別にいいよ」
 マッシュはたくさんの記憶が抜け落ちていることを気にしているふうもなく、さらりと言った。
 ガウは、そんなマッシュに初めて怪訝そうな視線を向けた。


 その日も、その次の日も、マッシュは獣ヶ原で思いきり遊んですごした。
 そうして4日目の今日は少し遠出して別の海岸に行き、その岩場に無数にある洞窟を探検した。
 暗くなる直前に三日月山に帰り着いた2人は、あえて確認するまでもなく、眠るためにそろって部屋の窓から外に出た。
「おもしろかったあ! あんなに深くてまっくらなところにも生き物っていっぱいいるなんて知らなかった」
 すっかり日焼けし、マッシュは思いっきりのびをしながら満足げに言った。とても病弱だったとは重えないほど溌剌としており、言動もそれにあわせるようにこの4日間でだいぶ変わっていた。
「砂だらけの砂漠って、なにがいる?」
「砂漠? 俺、砂漠にいたんだっけ」
「はじめてあったとき、砂漠しかみたことないって、いってた」
「うーん……そういえばそうだったような気もするけれど、忘れたなあ」
「レネー」
 どうでもいいことのようなマッシュに対し、ガウは肘をついて顔をあげ、心配そうに声をかけた。
「なんだかどんどん前にいたところ、わすれてないか? ほんとうにだいじょうぶか?」
「大丈夫って? 俺ずっとここにいたいな。ここにいれば疲れないし、熱もでないし、思いっきり走れるしさ」
 マッシュは目を閉じ、頬にわずかな風を感じながら気持ちよさそうに答えた。
「前は、できなかったのか?」
「うん――身体が弱くて、すぐに熱をだして、いつもみんなに迷惑をかけていたんだ。お仕事でお忙しいのに父上は何度も見舞ってくださったし、ロニだって徹夜で看病してくれた。俺が元気になると、なんだが逆にみんながやつれるようで、それがとてもつらかったんだ」
 親父のことを、ロニのことを話した! 思い出したのか、本当は忘れてなどいなかったのか――。
「……レネーは、どこにすんでた?」
 ガウは慎重に尋ねた。それに、眠たげな声が答える。
「フィガロ城……砂漠のまんなかにあって、水が貴重なんだ。俺が熱をだすと、たくさん氷を使うから……俺、それですごく……」
 声が小さくなり、やがて寝息に変わる。そのとたん、ガウが見ている目の前でマッシュはかき消すようにいなくなってしまった。


 マッシュが目を覚ますと、もう朝だった。何か夢を――それもただひたすら苦しい夢――を見ていたような気がする。
 いや、ここでそんな夢なんか見るはずはない。マッシュはそう思い直し、今見た夢を完全に忘れてしまった。
「さあ、今日はなにをしよう」
 むっくりと起きあがりながら振り返る。と、ガウが正座してじっとマッシュを凝視していた。
「わっ! ど、どうしたんだ、ガウ?」
「おいら、ちょっとようがある。レネー、わるいけど、ガウのへやでまっててくれ」
「俺にはいけないところなのか?」
 ガウがあまり真剣なので、なんだか不安になってくる。
「ううん。でも、いっしょじゃないほうがいい」
「そう――わかった」
「うん。なるべくはやくもどる」
 マッシュが頷くとガウはそのまま岩山を下りていって猛烈な勢いで北に走っていった。その姿が見えなくなるまで見送ってから、マッシュは沈んだ顔で部屋に戻った。
 ここにきて、初めて一人ぼっちになった。
「ガウ……」
 テディ・ベアを抱きしめて、呟く。それでも不安を追い払うことはできなかった。
 一人はいやだ。
 いつもふたりだった。ずっとふたり……

 ――レネー!?
 あっ、ガウ?
 ――レネー、気がついたのか? しっかりするんだ、僕がついている、ずっと、ずっとだ。だから、頼むから、頼むからしっかりして……がんばって……
 ……だれ?
 ――僕が、もっと早く気づいていればこんなことにならなかったのに。すまない、お前がそんなにひどいなんて知らなかったんだ。それなのに長い時間お前を起こしていて、お前を疲れさせてしまって……レネー!
 見えない手がぎゅっとマッシュの手を握る。
 ――レネー
 ――マッシュ様、まだこんなにお小さいのに、お可哀想に……。
 ――マシアス様……。
 ――マッシュさま。マッシュさま。マッシュさま。
 ――お気の毒に……熱が少しでも……新しい薬は……体力が……
 ――レネー。僕のレネー。ずっといっしょだよ……お前にもしものことがあったら……だいじょうぶ、ひとりにはさせないから……レネー、レネー……!


「――!」
 気がつくとガウの部屋だった。マッシュは顔をぬぐって初めて、自分が泣いていることに気づいた。
 なにか、とても悲しい夢を見ていたような気がする。そうだ、昨日も――いや、ここにきてからずっと苦しくて悲しい夢をみたていたんだ……
 ひどく汗をかいており、長い髪を結っていたリボンがほどけてしまっていた。
 陽はずいぶん高く昇り、部屋をすみずみまで照らしている。
「……ガウ?」
 声をかけても誰も答えない。
 あたりはしんとして、まるで自分以外はだれもいないみたいだった。
「ガウ……ガウ……」
 いわれのない不安に押し潰されそうになりながら、手にしていたものをぎゅっと抱きしめる。
 テディ・ベアだ。
 マッシュは、ぬいぐるみの柔らかさとあたたかさにわずかな救いを求めてしゃくりあげた。

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