ふたつ石の魔法 ――また、だ。
なだらかな稜線を描く草原を気ままに散歩していたガウは、ふいに方向を変えて三日月山に向かって走りだした。
この獣ヶ原に流れ着くいろいろなもののうち、海からの漂着物だとまったく察知できないが、長大な河を見下ろす洞窟を抜けた崖のあたりから現れるものは、その前兆がなんとなくわかる。
海からくるものは波が運んだもので、生きていたり死んでいたり大きかったり食べられたりするが、崖からくるものは奇妙な渦が運んだもので、必ず生き物、それも獣(モンスター含む)と決まっている。
そのあと、その獣たちがどうなるかまでは知らない。新参者を仲間にするかしないかは、そこにすむ獣たちが決めることだ。
三日月山の近くにいたおかげで、ぎりぎり、何かが現れる前にレテ河を臨む崖にたどりついた。今回は、うまいぐあいに崖のこちら側で渦が発生している。
ガウはそこからいくぶん離れたところで立ち止まり、ほっとひと息ついた。ときとして、渦は崖の向こう側――河の上空で発生することがあるので、目の前にいながら助けられないときもあるのだ。
渦はすでに中心部が暗くなっていた。いつもその暗い穴のようなところからいろいろなものが現れる。もっと近づこうと思えばできるが、ガウはそこから現れる獣の正体がわかるまではうかつに近づかないことにしている。それは、硬い甲羅を持ったものや、長い毛に覆われたもの、柔らかいところがまったくないもの、刺だらけのものだったりといろいろだ。
今回現れたのは、それらとは似ても似つかない、それでいてガウがとても見慣れたものだった。
まず、右手。そして左手。顔。身体、そこまで出たところで、それはころりと渦から落ち、断崖の下生えにしりもちをついた。
「おまえ……ナンだ?」
いつも溌剌としているガウの声が少し緊張する。こんなものが出てきたのは初めてだ。
ゆがみはまだしばらく続いていたが、少しずつゆるみ、消えていく。渦から現れた獣の中にはごくまれに喋れるものもいるが、まず会話が成り立つことはないので、ガウはめったに話しかけない。それが、今回声をかけたのは、相手が「普通に」喋れると思ったからだ。
「ここ、どこ……?」
それは、ガウよりも小柄で、小さい声で、とても弱そうに見えた。
「ここ、獣ヶ原」
「けもの――がはら? それってどのへんなの? サウスフィガロより遠い?」
それはさも不安そうに辺りを見回し、背後の河に気づくと突然喚声をあげた。
「わっ、すごい! なに、これ……もしかして、海?」
「ちがう。海はみかづき山のそと。これ、レテ河」
「河? すごい、ぼく、こんなに大きな河って見るのはじめて」
にっこりと微笑みながらガウに顔を向ける。晴れた日の空みたいな眼をしていた。
「北に村がある。モブリズっていう。ここ、みかづき山っていう。サウスなんとかいうのは、ガウ、しらない」
「ガウ? 君、ガウっていうの?」
「そう、ガウ。おまえはなんていう?」
「えっ、ぼく、レネー……」
答えてから、マッシュは、どうしてとっさにミドルネームのほうを名乗ってしまったのだろうと思った。先程までロニとお喋りをしていたからかもしれないし、自分と同じくらいの年の子に、面と向かって名前を訊かれたことがなかったからかもしれない。
ガウは、痩せて背が高く年上のように見えるが、たぶん同じくらいだと思う。双子でも、自分が病弱なせいか、まもなく12歳ともなるとエドガーとはすでに体格差が現れだしているのだから。
「レネー、どっちでもだいじょうぶ。村にいく? それともガウのうちにくる?」
ガウは、今まで明確な判断力があり意思表示のできる獣にそうしていたように、マッシュにどちらで住むかを選択させたのだが、マッシュは単純にどっちにいきたいのか訊かれたのかと思った。それなら答えは決まっている。
「ガウのうち!」
同い年の子のうちを訪ねるなど初めてのことだ。
答えると、ガウに驚いたような顔を向けられた。
「ほんとにか? レネーくるか。ガウのうちにヒトよぶのはじめて♪」
よほどうれしかったのか、ガウはその辺りをぴょんぴょんと飛び跳ねだした。
それを見ながら、マッシュはガウの背後にそびえる壁盤に気づき、改めて自分にふりかかった現象を考えてみた。
たしか、さっきまでロニと一緒にいたはずだ。体調はあまりよくなかったけれど、気分はとてもよくて、久しぶりにベッドに起きあがり、ロニがわざわざ運んできてくれた紅茶を飲んで、お喋りに興じていた。
そう、だから、自分が一人だけこんなところにいるはずはない。だが、その疑問も細長い洞窟を抜けたとたんに吹っ飛んでしまった。
「うわぁ……すごい」
思わず感嘆の声をもらす。
城の中で一番広い聖堂よりも広大な洞窟内部は、いくつかある自然穴からもれる光に照らされ、レテ河の水音が音楽のようにさーさーと聞こえてくるほかは、しんと静まり返っている。自分の声がわずかに響いていることに気づき、それを言うとガウは突然大きくて伸びやかな声をあげた。
それが幾重にも谺して小さくなり、消えていく。
「へえ、おもしろいね」
ガウは自分がほめられたようににっこりと微笑んだが、続いたマッシュの言葉に首を傾げた。
「ねえ、それでガウのうちは?」
「ここ、ガウのうち」
「え? でも、ベッドは? 椅子とかテーブルとかはないの」
「寝るとこならこっちだ」
言うとガウは洞窟をぐるりとまわり、もうひとつの出口――外に続いている――のわきにある岩を飛び越え、すぐにはわかりにくい角を曲がった。
「レネー?」
振り返ると、てっきり自分についてきていると思ったマッシュは、岩の向こうで呆然と立ち尽くしていた。
「こんなところ、ぼく、飛び越せないよ」
段差の間にはわりあい広い裂け目があり、底知れない闇が沈みこんでいる。
「こわいのか」
「うん――」
「それならそこで寝てもいいけど、寒いぞ」
「寝る?」
――泊まっていけっていうことかな? おもしろそうだけど、遅くならないうちに帰らなくちゃ。
「ぼくいいよ、ガウ」マッシュは断りのつもりでそう答えた。「ねえ、外はどんなふう?」
「どんな? ふつうだ」
ガウは身軽に戻ってきながら、出口に向かって歩きだした。
「わっ!」
外に出るなりマッシュはまた喚声をあげた。
「すごい! どこをみても草原だよ。一面の緑だ! すごいなぁ」
「すごい? いつもどおりだ。どうすごい?」
喜色満面のマッシュに、ガウが不思議そうな顔を向ける。
「だって、ぼく、砂漠しかみたことがないから」
「さばくってなんだ?」
「ここの草がぜーんぶ砂でできているの」
「砂? 砂って、海岸にあるあの砂か? 草が砂なら、草しか食べないやつは砂たべるのか?」
「海岸? 海があるの?」
マッシュはガウの問いに答えることを忘れて、瞳を輝かせた。
「うん。魚とったり貝をとったりする。泳ぐときもちいいぞ」
ガウは疑問の答えが得られなくても気にしたふうもなく、彼方を指差した。
「いきたい!」
「こっちだ、レネー」
ガウはそう叫ぶと、マッシュの返事を聞かずに走りだした。
「え? 待ってよ、ガウ。ぼく、走れ……」
あわてて2、3歩走った。それで止まるつもりだったが、思ったより勢いがついてマッシュは走り続けた。
初め驚き、次いで大きな喜びがマッシュの小さな胸を満たした。
こんなに走っているのに、少しも苦しくない!
朗らかな笑い声が聞こえる。マッシュはそれが自分のものだと気づいてまた驚き、歓声をあげた。
こんなに大きな声で笑ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
ガウも振り返り、同じように笑う。それを聞くともっとうれしくなる。
苦しくならないどころかまったく疲れないし、耳のそばをひゅうひゅうと風が流れていく音が聞こえるくらい、速い。
うれしくて、うれしくて、マッシュは海岸でとまったガウの肩によりかかりながら、しばらく笑い続けていた。
海でマッシュは生まれて初めて泳ぎ、たくさん遊んだ。
ふと、――も一緒にいればな、と思った。
誰のことを思ったのか思い出そうとしたが、あんまり楽しくてすぐに忘れてしまったけれども。
そうして、さすがにへとへとになるまで遊んだところで三日月山に戻り、それぞれ器を持って獣ヶ原に繰り出した。
「どこにいくの?」
もう日が傾いて夕映えがはじまっている。二人は長い影法師を追うように歩いていた。
「ミルクのとこ」
ガウが向かった先には、子供を生んだばかりの獣がいた。
「ミルク、もらう。きょうはちょっと多いけど、いいか?」
子供と一緒に横になっていた獣は、ガウが指差したマッシュをちらりと見やり、のそりと立ちあがった。
「ありがとう」
一言礼をいって、ガウは獣の乳をしぼった。器はたちまちいっぱいになり、マッシュの分もしぼってくれた。
「ありがとう」
器を手渡され、マッシュはガウと獣に頭をさげた。
すこしばかり小高い丘にのぼり、ふたりは夕陽を眺めながら途中で拾った木の実と一緒にミルクを飲んだ。
「おいしい! 料理長のよりおいしい」
あれだけ遊んだのに、本当はあまりお腹がすいていなかったのだが、一口飲んでそんなことは忘れてしまった。
「リョウリチョウって、レネーのおふくろか?」
「違うよ、お料理をしてくれる人」
「それなら狩りもうまいか」
ガウの素朴な問いに、マッシュはあやうくふきだしそうになった。
「ううん。食べ者は商人から買うんだ」
「買う……レネーもお金をつかうのか」
「ぼくは使ったことがないけれど、ほしいものはなんでも買わないと手に入らないの」
「なんでも買うのか」
「うん」
「それなら、おやじも買えるか?」
これはさすがに素朴ともいえず、マッシュは目を丸くした。
「えっ? 買えるわけないよ。やだなあ、ガウ。そういえばガウの両親は?」
「おふくろは死んでる。おやじもたぶんそうだと思う。でも、ここのみんなが、かわりばんこでガウの面倒をみてくれた」
母親の死は何故か確信していた。けれど、父親は判然としない……
「そうなんだ、ごめんね」
「? なんであやまる? レネーのおふくろとおやじは?」
「母上はもう亡くなっているんだ。でも父上がぼくたちをかわいがってくださる」
「ぼくたち?」
「うん。双子の兄上。やさしくてね、とても頭がいいんだ。ぼくの自慢の兄上だよ」
「ふたごってなんだ?」
「ふたり一緒に生まれたんだ。それからずっと一緒にいるんだよ」
――いっしょに……
「おいらにも、ずっといっしょにいるあにき、いる」
「え? 会いたいなあ」
「じゃあ、みかづき山、戻る」
「うん」
食事もすんだので、二人は連れ立って「うち」に戻った。
暗くなったせいでだいぶ足元がおぼつかないが、マッシュは恐がったりしなかったし、ガウの部屋に続くあの裂け目を飛び越すことをためらうこともなかった。ガウがいれば絶対に安全で、彼ができることならなんでもできるような気がした。
ガウの部屋は意外とこぢんまりとしていた。かちかちいう音がしたかと思うとランプにぽっと灯りがつき、やさしい炎が部屋中を照らしだした。
「これだ」
そういってガウが指差したのは、古いテディ・ベアだった。焦げ茶色の毛並みはすっかり色落ちして汚れていたが、真っ黒の瞳と少し開いた口に愛嬌があって笑っているように見える。
「これって……ぬいぐるみ、だよね?」
思わずガウとテディ・ベアを交互に見つめる。
「ずっとガウといっしょ。ガウよりさきに生まれてた。だからガウのあにき」
にこやかに言うガウに相槌をうつこともできず、マッシュは適当に言葉を探した。
「ええと、そのう、ガウはずっとここに住んでるの? どうして?」
「ガウここで生まれた。こどものこしておやが死ぬ、めずらしくない。でも、みんなが育ててくれるのめずらしい。おいら運がいい」
ガウはどこか誇らしげに言った。
「ガウのほかに人はいないの?」
マッシュは何気なくテディ・ベアを手にとりながら訊いた。
「ヒトならモブリズにいる。ほしにくくれるヒトもいるし、いろいろ教えてくれるヒトもいるし、いかくするヒトもいる」
「威嚇って……」
マッシュはぎょっとして息を呑んだ。
「ナワバリあらされるの、だれでもいやがる。ヒトはとくにけいかいする。だからガウ、モブリズにはほとんどいかない。獣ヶ原にくるヒトしかしらない」
「ひどいよそれ。ガウの両親だってモブリズの人だったんじゃないの? どうしてガウを威嚇したりするの?」
マッシュは本気で怒っていたが、ガウは困惑気味だった。
「え? ガウのおふくろとおやじ、モブリズなのか? どうしてそれレネーが知ってる?」
「違うの?」
「ガウ、ヒトじゃない、ニンゲン。ニンゲンは村にすむと、ふくをきてくつをはいてヒトになる。ちがうか?」
「違うよ! 人間も人も同じだよ。もしかしたらガウの両親はモブリズ出身じゃないかもしれないけれど、きっと何か事情があったんだよ。このあたりにはほかに村はないの? それならモブリズの誰かがガウの両親のことを知っているかもしれないよ。親戚がいるかもしれないじゃない。訊いてみたの?」
ガウはますます困惑した。
「レネー、はやくちすぎてよくわからない。でも、いろいろなことは前にアウインがきいてくれた。それで、モブリズにガウの家族はいないってわかった。だから、アウインがモブリズからでるとき、ガウをさそってくれた。アウインといっしょならふくをきなくていいし、くつをはかなくていいって。でも、ガウ、のこることにした」
「アウインってだれ?」
「ぼうけんか。せかいをまわってる。アウイン、はじめモブリズのばあちゃんのところにいて、それから獣ヶ原にもきて、いろいろおしえてくれた。おかげで、ガウ、たくさんことばをおぼえたし、自分のなまえならかける」
「それで、いいの?」
マッシュはテディ・ベアをもとに戻しながら、釈然としないようすで訊いた。
「うん」
ガウのきっぱりとした首肯に、ようやく納得する。
「きょうたくさんあそんだ。もうねる」
「そうだね」
本当はまだ眠くはなかったのだが、マッシュは頷いてガウの簡素なベッドを見つめた。
「きょう、さむくないし、かぜもない。上でねるか、レネー?」
言いながら、ガウは窓がわりの自然穴を指差した。
「わあ、外で寝るなんてキャラバンみたいだ!」
眼を輝かせるマッシュに満足し、まずはガウが古い毛布をかかえて窓から岩山によじ登った。
「すごい、満天の星空、だね。ぼくがいたところでも星はきれいだけれど、こんなにはすごくないよ」
「きょうは月もでないから、よけい星がきれい。レネーがいたサウスなんとかは、砂のほかになにがある?」
ガウはよく外で寝るとみえて、ややくぼんだところに干草をたくさん敷いていた。そこにおもむろに横になり、マッシュに笑いかける。
「サウスフィガロがあるよ。そこはお城から一番近い街なんだ。ぼくが住んでいるのは、フィガロ城といってお城なの」
「おしろってなんだ?」
「何って――ええと、石でできた大きなうち、みたいなものかな」
「じゃあ、ガウのうちとおなじ」
「ちょっと違う……と思うよ」
そう言いながら、どう説明すればいいのかわからない。マッシュはさりげなく話題をかえた。
「ぼく、ここにきてまだ一日経っていないんだね。でもなんだかもうずっといるような気がする」
「レネーがずっといればそうなる。ガウうれしい」
「ぼくも。うれしすぎて、なんだかあまり眠くないよ」
フィガロにいたころも、幾度も眠れぬ夜をすごしたことがある。でも、それとはまるで違う。心地よい疲れがあって、気持ちが高揚していて、寂しさなど少しも感じない。
「ガウもわくわくしてる。レネーいいやつ、ずっといっしょ」
「うん!」
いっしょ、と言われてさらにうれしくなる。
「ぼくもずっと……」
“ いっしょにいるよ ” と言葉を続けようとしたが、ガウはもう軽い寝息をたてていた。あれだけ遊んだのだからむりもないが、こちらは少しも眠くない。マッシュはそっと起きあがり、膝に頬杖をついて無数の星や星明りにわずかに浮きあがる草原のシルエットを見つめた。
夜明けまで見ていても、少しも飽きることはなかった。