ふたつ石の魔法 そうして、どれくらい経ったろう。とにかくガウの言葉を信じて待ち続け、ようやく人の気配がした。
「レネー、いるか?」
「ガウ!」
マッシュは何かにつまづきながらガウに抱きつき、よかったと何度も呟いた。
「ごめん、おいら、レネーのことうまくはなせなくて、じかんかかった」
「いいんだ、戻ってきてくれれば。どこにいっていたんだ?」
「モブリズ」
「え? でも威嚇されるんじゃ」
「アウインのばあちゃんなら、そんなことしない。ほかのヒトにみられないようにいけるから、だいじょうぶ」
「そうか、よかった。でもどうして急に?」
「アウインのばあちゃん、アウインよりものしり。崖のうずをゆがみっていったのはアウインだけど、もっとくわしいことをいったのは、アウインのばあちゃん」
「俺が出てきたっていう渦だな。それがどうしたんだ?」
「ガウにはむずかしい。ばあちゃんのうちにいったほうがわかりやすい」
「いいよ、ガウのわかる範囲でいいから教えてくれれば」
ガウはマッシュが抱きしめているテディ・ベアに目をとめた。マッシュの髪を結っていたはずのリボンが、熊の首にきれいに結ばれている。
「わかった」
神妙に答えて座り、ガウはできるだけ言葉をさがして話しだした。
「ずっとずっとむかし、こことはぜんぜんちがう世界があって、それがこの世界とつながっていた。でも、せんそうがあって、世界と世界をつなげていた門がとじた。世界がふたつくっついていたから、すごいちからがでる。ひとつの門じゃおさえられなくて、もれたのが、あの崖に口をひらいた……らしい」
ガウは心配そうな顔を向けたが、マッシュは、戦争とは魔大戦のことで、ともうひとつの世界とは幻獣界のことかな、と思いながら先を促した。
「アウインがいってたけど、ときどき、あそこから、しんじられないくらい遠くの獣とか、今はもういないはずの獣がでてくるときがある。獣しかでてこないのは、獣のほうがそういうふしぎなちから……ええと、マホウにはんのうしやすいからって」
「魔法……魔大戦で使われたっていう不思議な力のことだな」
「うん。そのせいで、レネー、獣ヶ原きた。フィガロ、獣ヶ原からいちばん遠いところなのに」
ガウが何故か申し訳なさそうに言う。
「フィガロ? 俺そこからきたのか?」
「うん。それで、レネーが寝るときえるのは、そのあいだ、レネーがフィガロにもどってるから。それなのに、目をさますとフィガロのことやロニのことわすれるのは、レネーが、獣ヶ原のニンゲンになりかかってるから」
「ロニ……」
ガウの言葉を繰り返したとたん、胸がきゅっと苦しくなる。さっきの夢で手を握ってくれた誰かのことを思い出す。
――ずっといっしょ……だいじょうぶ、ひとりにはさせない……――
「……ねえ、ガウ、俺、さっき少し寝ていて、夢をみていたみたいなんだけれど、もしかして……夢じゃなかったのかな」
そう言っているそばから、忘れていたことが信じられないような大切な思い出が、次々とよみがえってきた。
「うん」
ガウは頷いて答えたが、マッシュはそれを見ていなかった。
「そうだ……どうして忘れていたんだろう。俺、いつもアニキを待たせてばかりいて、迷惑をたくさんかけて、それがとてもつらくて……」
ガウは目にいっぱい涙をためるマッシュから、視線をそらした。
「……おいら、アウインから、石をもらった」
そういって、肩にかけていたストールの下からペンダントを取りだす。ペンダントヘッドの貴石はとても小さく、金色に輝いていた。それを見て、マッシュの目が驚いたように見開かれる。
「これ、ふたつ石。これくれたアウインと、ガウのおねがいがいっしょなら、かなう石。おいら、ずっといっしょに獣が原にいてくれるニンゲン、ほしかった。アウインもわかってて、それ、ねがってくれた。そしたら、レネーがきた」
そこで、ガウは突然額を地面にこすりつけるほど頭をさげた。
「ガウ、わるいこ。おいらがレネーをフィガロからつれてきた」
「え?」
「レネー、フィガロではしれない、獣ヶ原ではしれる。それ、レネーのからだ、フィガロにあるせい。マホウで、こころだけ獣ヶ原きた」
「こころ、だけ?」
では、ここにきて一度も空腹を感じなったことも、眠くならなかったことも、そのせいなのだろうか?
「そう。でも、フィガロのこと、ぜんぶわすれたら、レネー、からだも獣ヶ原くる。レネーのおやじとロニ、レネーをなくす。ばあちゃん、それ、レネーが、フィガロで死ぬことだっていった。おいら、わるいこ。もう、ニンゲンといっしょにいたいってねがわない。レネーをフィガロにかえす。ロニのとこ、かえす。ガウ、わるいこ。ほんとにわるいこ」
声があまりの申し訳なさに震えている。それを聞くマッシュのほうがつらくなってくる。
「まってよ、ガウ。顔をあげてくれないか」
マッシュはガウの肩にやさしく手をかけ、上向かせた。そうしてから、自分の首にかかっていた服の下のペンダントを取り、ガウの前に差し出した。
「あっ! それ――」
「これ、ふたつ石っていうのか」
それは、ガウのペンダントと同じ石だった。
マッシュは静かに話しだした。
「アニキがくれたんだ。思い出したよ……砂漠に倒れていた冒険家を助けたら、この石をくれたって。アニキは、どんな願いでも叶えてくれる石だとしか言わなかったけれど、たぶんどうすればいいか知っていたんだ。このところ、俺、ベッドからなかなか起きられなかったから、それでみんなに心配をかけていたし、思いっきり走りたいって思っていた。本で見たとっても広い草原で……身体のことをぜんぜん心配しないで、たくさん遊びたいって。ロニもそれがわかっていたんだ」
「そのぼうけんか、アウインか?」
「たぶん。名前は聞かなかったけれどそうだと思う。もう元気になってフィガロにはいないけれど。ごめん、ガウ。お前だけのせいじゃない。俺も願っていたんだ。たくさんたくさん遊びたいって。ただ、俺、ひとりになったことってなかったから……何かをするとき、いつもアニキがいてくれたから、それで、アニキのかわりにガウが選ばれたんだ」
「でも、ガウもよんだ」
「うん。――すごいな、これ、本物の魔法の石だ。フィガロと獣ヶ原を結びつけてくれたんだよ」
ガウはすっくと立ちあがった。
「レネー、おやじとロニのとこにかえす」
「どうやって?」
「レネー、レテ河(=忘却の河)をこえて、うずからきた。ばあちゃんいってた、レテ河、獣ヶ原と、ほかの場所や時間ををむすぶ河。ふたつ石をつかえば、また、うずがでるはず」
「でも……」
「だいじょうぶ。おいらのふたつ石、やる。ふたりともおねがい、いわない、それでもおねがいがおなじなら、ねがいがかなう。ばあちゃんいってた。おいら、これに、もうねがいかけた。レネーのねがいもおなじなら、これでかえれる」
……それではガウが何を願ったか言っているようなものだが、マッシュは素直にペンダントを受け取った。
「それじゃあ、俺も」
自分のふたつ石を握りしめ、ひとつだけお願い事をしてガウの首にかける。
「俺もこれにお願いしたから……ガウも同じ願いをかけたら、俺たちきっとまた会えるな」
むりに笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。身体はどこも痛くないのに、胸がくるしい。
「でも、ガウ、どうしよう――俺が帰ったら、ガウがまたひとりぽっちになる」
「ガウひとりじゃない!」
突然怒鳴られ、マッシュは驚いて目を見開いた。
「ガウにもあにきがいる。だからだいじょうぶ。レネー、こい!」
ガウは怒ったようにマッシュの腕をきつくつかみ、部屋から飛びだした。
「でも、帰ったら、俺、もうここには戻ってこれないんだろう」
ガウに引かれながらマッシュは寂しそうに言った。ガウは答えない。
進むほどレテ河の流れる音が大きくなる。
「俺、もう少しここにいたいよ。あんまり急すぎるよ。俺まだ魚の採りかたを教えてもらっていないし、いろんな獣と遊んでみたいし、もっと高い樹に登ってみたいし……」
「じかんたつほど、レネー、またロニのことわすれる、もどれなくなる。ばあちゃんいってた」
もう、レテ河を臨む崖にきていた。マッシュは必死に食い下がった。
「ガウ、そんなに俺を帰したいのか? 俺、もどったらもう走れなくなるんだぜ。またみんなに迷惑をかえてしまうんだ。それくれらいなら――」
いきなりガウが振り返り、どんと崖のほうに思いっきりマッシュを突き飛ばした。
「レネー、わがまま! おやじが弱いのをまもる、あたりまえ。めいわくでもなんでもない。いなくなるほうがもっとかなしい。レネーひどい」
「ガウ……」
怒鳴りつけ、ガウはすぐに背中を向けたが、マッシュは、一瞬だけ見えたガウの大粒の涙に言葉を失った。
「……ごめん」
事態があまりにも急激に変わりすぎて、感情がついてこない。もちろんエドガーに会いたい。でも、初めてできた友達をこのまま置いていくのもつらすぎる。
「レネーひどいやつ、おいら、もうしらない。さっさとかえれ!」
ガウは叫びながら振り返り、さらにマッシュを突き飛ばした。
その勢いに抗しきれずよろけた先に、地面はなかった。
「あっ!」
――落ちる!
そう思ったら右腕に重い衝撃があり、マッシュはガウの肘の辺りをつかみ、またつかまれ、崖にぶらさがっている自分に気づいた。
「レネー!」
つながりは互いの利き腕。ガウにならマッシュを引き上げられる。だが――。
ガウは、はっとして視線をわずかに左にそらした。
そこだけ奇妙に河の流れがゆがんでいる。渦が現れる前兆だ! それもマッシュの真下に感じる!
渦はとても弱いものだった。空間がゆがみやすいこの場所に、魔力を秘めた石がふたつもあることでゆがみが触発されただけだろう。何が現れるわけではないし、すぐに消えてしまうものだ。
今手を離せばマッシュは帰れる。そう思った。
「ガウ!」
いっこうに自分を引き上げてくれないガウに、マッシュが河の轟音に負けない叫び声をあげる。その声にガウははっと我に返った。
「レネー、下! てをはなす!」
ガウが怒鳴りながら本当に手を離したとたん、マッシュは霹靂を受けたように生まれて初めての友達を凝視した。
「さっきのは謝るから、助けてくれよ!」
こんな状況で下を見ることはできない。マッシュは必死でガウの腕をつかんでいたが、すぐに自分の体重を支えきれなくなり、腕がすべり、ガウの手首までずり落ちた。
マッシュの甲高い悲鳴が轟音を切り裂く。
「いやだ……ガウ!」
河は急流で、落ちたら絶対に助からない。それなのに過ぎた言葉に対するガウのあまりに非情な仕打ちは、マッシュを完全に打ちのめした。
涙をためた紺碧の瞳が、すがるようにガウを見つめる。
「レネー、ちがう……」
傷つけられた眼差があまりに痛々しく、否定するガウの声は河にかき消されてしまう。
「裏切り者!」
マッシュの絶叫に、ガウは一瞬呼吸をとめた。
「やだ! 俺、死にたくない!」
――レネー! 僕が絶対死なせない!
下のほう――渦から、思いのたけをこめたエドガーの声が聞こえた。
マッシュの脳裏にフィガロが閃く。何人もの大人に囲まれ、瀕死の自分が苦しんでいる。そのなかに誰よりも熱心に祈っている兄の姿がある。
ロニだけだ。
マッシュはとっさにそう思った。
俺を助けてくれるのは、俺を必要としてくれるのは、ロニしかいない。
そう思ったとたん、力尽きたのか、故意なのか、マッシュの手がガウから離れた。
……どこかに永遠に落ちていくような感じだった。
初めての友達……初めての喜び……初めての裏切り……初めての傷み……
あまりにもつらすぎる事実。マッシュは落ちながらそれを忘れることを望み、小さな胸が受けた深い傷は次元の狭間に埋もれてしまった。
「――マッシュ!」
耳元で声がして目を開けると、最愛の兄の笑顔が飛びこんできた。
「マッシュさま!」
「マッシュ様……」
まわりの大人たちからも安堵の呟きがもれる。
それを見て、マッシュは弱々しくはあったが安心したように微笑んだ。
ここの人たちは、絶対に俺を裏切らない……
つらい闘病に克ったというのに、何故そう思ったのかはわからない。
ただ、ここに戻ってこれてよかったと、心の底から思った。
数日後、すっかり回復したマッシュは、胸のペンダントの石が砕けていることに気づいた。
せっかくのもらいものを知らぬ間にとはいえ壊してしまい、マッシュは素直に贈り主であるエドガーに謝った。涼しげなテラスには紅茶の香気がほんのりと漂い、二人の少年をやさしく包みこんでいる。
「それくらい」
エドガーは、子供のものとは思えない優美な微笑を浮かべ、あっさりと言った。
「ほしかったらまた僕がさがしてあげる。お前のためならなんでもするよ、レネー」
あの石が砕けた理由が魔法が効いたせいなのか、その逆なのか、エドガーにもわからない。けれども、マッシュはとても病み上がりとは思えないほど溌剌とし、気のせいか肌が焼けているようにさえ見えた。
まるで、陽射しの強い場所で心ゆくまで遊んできたかのように。
それに、何より……
「ううん。俺、ロニがいればそれでいい。俺さ、意識を失っていたとき、夢をみていた気がするんだ」
……何より、この口調が、以前の気の弱い少年のものとはとても思えない。
マッシュはわずかに兄から視線をそらし、記憶をたどるように蒼穹の彼方を見つめた。
「そこでの俺って、信じられないけれどロニのことをすっかり忘れていて、誰かが何かひどいことを言って、俺を崖から突き落としたんだ。俺、ただ悲しくて怖くて……落ちながらロニを呼んだ。だから、目が覚めてまっさきにロニを見て、すごくうれしかったんだ。これからもずっと一緒だよな、ロニ」
マッシュは同意を求めて熱心に言った。
「もちろんだよ、レネー」
エドガーは約束の証にわずかに身を乗りだして弟の額に口付け、次いで愛情の証に頬に口付けをして、マッシュの言葉が事実であることを保証した。
「僕たちは、何があってもこれからもずっと一緒だよ」
「うん」
マッシュもエドガーにお返しのキスをし、屈託のない笑みを浮かべた。
兄の言葉を心から信じて。
――その後、10年もの間離れ離れになることも知らずに……。
ガウは、マッシュが間違いなく渦に呑まれたのを確認し、ゆがみが完全に消えるのを待っていた。
いつもより出現が早かったぶん、消えるのも早いはずだが、いやに遅く感じる。
……本当は、この獣が原を離れ、一緒にいってもいいと思っていた。
今、飛びこめばレネーのところにいける。それがわかっていたが、ガウはその一歩を踏み出さなかった。
渦が完全に消えたのを確かめてから、手元に残った親友のふたつ石をためらわずにレテ河に投げ捨てる。
あのとき――マッシュの身に起こっていることを相談しにいったとき、アウインのばあちゃんは、こう言ったのだ。
――ガウ、お友達を帰すとき、ここに未練を残させちゃいけないよ。
一度次元の歪みをくぐると、巻き込まれやすくなるんだよ。心が残ると、なおさら引き込まれやすくなって、また友達がここにきてしまうかもしれないからねぇ。心と身体が離れるのはとてもよくないことで、身体が弱い友達が何度もそれをやってしまったら、とても長くは生きられないよ。
だから、ガウ、その友達が自分からもとの場所に戻るようにしておあげ。つらいだろうけれど、その友達に嫌われてでも、ね……――
思わぬアクシデントでそれが叶ってしまった。
でも……
ガウは、自分の部屋のベッドであにきを抱きしめ、泣いていた。
マッシュは、ガウを嫌いになったのではなく、裏切られたと思って行ってしまった。
最後のあの眼差が忘れられない。
他にだれもいない洞窟に、ガウの嗚咽がいつまでも聞こえていた。
それ以来、ガウが岩山の上で眠ることはなかった。
その後、崖に渦が現れることはなかった。ばあちゃんによれば、今まで渦から出すばかりだったのが、逆に入れてしまったので、次元のバランスが崩れたせいらしい。
ガウは二度と崖に近づかず、悲しみはさらに大きな悲しみ――ばあちゃんの死――によって塗り替えられ、それを乗り越えると、もう過去を引きずることはなかった。
……それから、一年後。
獣ヶ原にヘンな二人組が流れ着いた。
ひとりはござる――ならぬ、ひげを生やした男で、もうひとりはものすごく大きな男だった。
「拙者はカイエン。で、こっちがマッシュ」
ござるが紹介する。
「マッシュにカイエンか」
カイエンは、ガウが勝手にイメージしているおやじみたいな感じがした。
マッシュのほうは、ガウが大切にしている熊のぬいぐるみと重なった。
「ガウ、おぬしとは、何かうまがあいそうでござる! いっしょに来るか?」
カイエンが誘う。
いっしょに――
その言葉がマホウのようにガウを幸せにした。けれども、そのためには「ぴかぴか」を被ってあのレテ河に飛びこまなければならない。
レネーのことを思いだし、思わず尻ごみしたガウを、マッシュもカイエンも崖の高さと河の勢いに怖気づいたのだと思って笑い飛ばし、さっさと河に飛びこんでしまった。
あとについて行かなければ、また独りになってしまう。
レネーが去り、ばあちゃんが逝ったことで、ガウは孤独を知ってしまった。
今までも何度か、干し肉をちらつかせたモブリズのヒトが「おいで」と命じていたが、「いっしょにくるか?」と誘ってくれたのは、アウイン以外ではこの二人が初めてだった。
おやじみたいなカイエンと、あにきみたいなマッシュ。
いっしょにいれば、レネーといたときみたいにきっと楽しい。ばあちゃんといたときみたいにきっと安心。
ガウは意を決すると勢いよく崖から飛び降りた。
ざぶん!!
それが、ガウの新しい旅立ちのホイッスルとなった。
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