3 絶望の淵から クラウドに武器を持たせておくことはかなり物議を醸したようだが、取りあげようとすれば暴れるし、持たせても無害だとわかって認可されることになった。
それから半月ほど経った異様に静かな晩に、ザックスは再び「あのクラウド」を見ることになる。
なんとなく胸騒ぎがして寝つけなくて、手枷の鎖を鳴らさないよう注意しながら硬い床で何度も寝返りを打っていた。そのうちにうとうとしていたらしく、漠然とした嫌な夢からクラウドの呟きが解放してくれた。
「セフィ……ロス」
初めはまたあの悪夢を思い出しているのかと思ってやめさせようとしたが、そうではなかった。
「そこはどこですか? 教えてください。場所がわかればすぐに行きます。……大丈夫です、リユニオンすればそんな傷、すぐに治ります。セフィロス、俺の声が聞こえますか? セフィロス。応えてください」
「……誰と話してるんだ、クラウド」
背筋を冷たいものが走っていく。生きているというのか、あの男が。
地下にあって夜の到来を告げるわずかな灯りのせいか、こちらに振り向いたクラウドの瞳が緑色に見えた。あの男を思いださせる不吉な色だ。
「セフィロスとです。俺、セフィロスの声が聞こえるんです。セフィロスはとても遠いところにいるみたいで、深い傷を負って眠っています。ジェノバと魔晄がセフィロスを生かしていますけれど、目を覚まさせるには、リユニオンしないと……」
「リ
たった一言を言うだけでひどく精神力を消耗した。信じたくない。あの男が生きていることも、クラウドのこの変化も。
「リユニオンです。それをしないとジェノバは本来の役目を果たせないんです。セフィロスは眠りながら、ずっと呼び続けています」
「……お前をか?」
あの悪夢の怒りがそのまま甦ってくる。そんなザックスをよそにクラウドは淡々と答えた。
「ジェノバ(母親)を呼んでいるんです」
ジェノバという言葉は「悪魔」という響きを持っていなければならないのに、どうしてかそう聞こえてしまった。
「俺ならセフィロスに応えられます。ですから、どうかナンバーをください」
ナンバー。ジェノバ細胞投与及び魔晄照射実験で、判定基準がはっきりしない――要するに宝条の独断で成功とみなされた者にのみ与えられるイレズミ。認められたいという劣等感が、そんなものに固執させているのか。
「俺は、失敗作じゃありません。ちゃんとセフィロスの声が……」
「やめろ!」
クラウドに触発されて、自分にもセフィロスの声が聞こえてしまったような気がした。静かすぎる夜。まるで星の声さえ聞こえてきそうな。
「誰だ、きさま……クラウドじゃないな?」
言いながら答えを知っている自分に気づく。そう。自分もセフィロスの声を聞くためにジェノバ細胞を注入されていたのだ。あの男は……生きているのだ。
「誰でもありません。俺はセフィロスとリユニオンするため、役に立つための手足です。ですから、その証をください。俺に、ナンバーをください」
「誰でもないだ!? 冗談じゃない! おい、しっかりしろ。お前はクラウドだ。クラウド・ストライフ、
「
あまりの怒りにザックスはその言葉を聞き流した。
「ナンバーなんかくそっくらえ! お前はお前だ。宝条なんかに認められてうれしいか。誰が認めなくても俺が認めてやる。だから戻って来い、クラウド!」
いっぱいに伸びた手枷が手首を傷つける。発作の前兆を感じたがザックスはそれを無視し、まるで祈りを捧げるように手術台に座わるクラウドに叫び続けた。
「剣を取れ! それがお前が誰か証明する。クラウド、剣を……」
いきなり炎のような勢いで視界が血の色に染まる。手首の痛みに気づいたとき、破壊衝動は怒涛のように枷に向けられていた。
――こんなときに……!
思いとは裏腹に体が勝手に動く。モンスター捕縛用の太い鎖はいともあっさりとちぎれた。あまりの手応えのなさに、力の放出の場を求めるような咆哮があたりの備品を震撼させながら轟く。その波動はクラウドにも及んだのか、彼はびくりとして薄い闇の中で血の色に光る双眸を見た。それが、クラウドを「戻す」きっかけとなった。
咆哮くらいではとうてい鎮まりきらない破壊衝動は、行き場を求めて自制しようとするザックス自身に襲いかかった。巨大な見えざる手が心臓をわしづかみにし、肺を潰し脳髄をかきまわす。たまらずうずくまり、ザックスは心の中で呪文のようにつぶやいた。
――大丈夫だ。こんなのなんでもない。俺は人間だ。人間なんだ。ソルジャーがこんなのに負けてたまるか。くそ、俺は人間だ……
どれくらいそうしていたのか。ザックスはそっと肩に何かが触れるのを感じ、ぎょっとして顔をあげ、クラウドのささやきを耳もとで聞いた。
「大丈夫だ、ザックス。これくらいなんでもない。お前は人間だ。何があってもそれは絶対に変わらない。だから何も心配しなくていいんだ」
さっきまでのクラウドではない。まるで正気に戻ったようなしっかりした言葉で、いたわるようなやさしい口調だった。
「ジェノバ細胞がどんなにお前を変えようとしても、絶対にできやしない。ソルジャーたる者がこれくらいでやられるものか。お前はずっと人間のままだ、ザックス」
驚いたのは、いつも正気を保つために唱えていた呪文が、クラウドの言葉そのままだったこと。
高濃度の魔晄照射とジェノバ細胞により、ザックスは魔晄炉にあった元人間のモンスターと同じ運命をたどろうとしていた。体内で起こっていた変化は、今や少しずつ表面に表れようとしている。
以前は、クラウドが正気で自分のほうが己を失っていた。おそらくそのときから幾度か今のような発作を起こしていたのだろう。だから、正気に返ったときから手枷につながれていた。そんな自分をクラウドが発作のたびに今のようになだめてくれていたのだ。
「……ありがとう」
これ以上の言葉が思い浮かばない。クラウドが離れ、驚きの顔を向ける。それはさっきまでの捉えどころのない表情ではなく、久しぶりに見るいつも通りの顔だった。
「ザックス。わかるのか、俺が」
「……ああ」
不覚にも涙がこみあげてきた。何がきっかけであれ「戻って来た」のだ、彼は。
「わかるよ。俺はもう大丈夫だ。心配、かけたな」
発作が起きたときはいつもそうだが、喋るのも億劫なくらい疲れていた。それでも微笑いながらクラウドの肩に手を置こうとしたとき、物憂げにちぎれた鎖がカシャンと鳴った。
「血が出てるじゃないか」
クラウドはそう言ってザックスの腕をとった。
「平気さ、これくらい」
「……朝になって灯りがついたら、鎖を背中に隠すんだ。切れたのがばれたらもっと太いやつをつけられる。―― いや」
手を離しながら神妙に言い、クラウドは改めてザックスを見た。
「意識はしっかりしてるか?」
「ああ。ここがどこで、どうしてこんなところにいるのかも、自分に何が起こってるかってこともわかってる。俺はもう大丈夫だ」
「そうか。それなら今すぐここから逃げろ。お前なら逃げ切れる」
「でも、お前身体がまだ……いや、そうだな。お前をかついでいけるくらい、力がありあまってるもんな」
その言葉を証明するように疲れをものともせず立ちあがったザックスに、クラウドは屈んだまま首を振った。
「……俺はだめだ」
「何がだめなんだ!」
“だめ”という言葉がクラウドの劣等感を思いださせ、必要以上の声をだしていた。
「しーっ。……俺がいると足手まといになる」
「お前が? こんなときになに冗談言ってんだよ」
クラウドはその言葉にふっと表情をやわらげた。
「お前さ、自分が格別に強いってこと、自覚してないだろ。自分にできることなら誰だってできるって思ってる。頼むから一人で逃げてくれ。俺のことは気にするな」
「なに、わけわかんないこと言ってんだよ。お前だって……ファーストじゃないか」
正気に返って全てを思い出しているのなら皮肉になるところだったが、クラウドは否定しなかった。
「まぐれでなれたんだ。いや……俺、ほんとにファーストだったのかな……」
「ばかなこと言ってる暇があったら、さっさと行くぞ」
うじうじしている者への苛立ちと、クラウドがまたパニックを起こすかもしれたいという焦りから、ザックスはいきなり親友の腕をひっつかみ、むりやり立たせようとした。クラウドは勢いにつられて立ちあがりかけたが、急に顔をこわばらせ、糸を切られた操り人形のようにかくんとその場にへたりこんでしまった。
「クラウド!?」
ザックスの声に初めて不安が――いや、恐怖がにじむ。
「今夜は……静かすぎるんだ」
ゆっくりと両手をこめかみにあてる。こぼれる声は弱く、震えていた。
「セフィロスの声が聞こえるんだよ。死んだはずのあいつが、俺を連れていこうとしてる……」
「そんなもの聞くな! ファーストの意地を見せろっ」
悲しげな瞳がザックスを見あげ、口が何かの言葉を形づくる。
“だめ、みたいだ”
直後、クラウドはがくりとうなだれた。
「クラウド! しっかりしろよ、おい!」 どんなに肩を揺すっても、もうなんの反応も返ってこなかった。
「……クラウド……頼む、俺を一人にしないでくれ」
ザックスの唇から嗚咽に近い呟きがもれる。
しばらく親友の肩に手を置いたままうなだれていたが、ザックスはいつまでも絶望に打ちひしがれているような男ではなかった。ぐずぐずしている暇はないと脱走の決意を新たにしたとき、扉がためらいがちに開く。
いつかの女化学者がそろりと入って来て薄闇に目をこらした。一歩前に進んだとたんに扉が閉まり、背中に剣が突きつけられる。
「こんな時間に採血か」
押し殺された声に彼女はびくりと肩をすくませ、そろそろと両手を挙げた。
「違うわ。あなたの、その……大声が聞こえて」
「なんであんたが来た?」
「守衛は……眠ってるわ」
答える声は震えていた。恐怖にというよりも、今自分がここにいることに気を昂ぶらせている感じだ。
「……どういうことだ」
彼女はゆっくりと振り返り、油断のないザックスの視線を意識しながら、白衣の内ポケットに入れていたものを取りだした。
「ピースメーカーよ。こんなものしか見つけられなかったけれど、ずっと昔からあって……大丈夫、使えるわ。わたしが手入れをしておいたから」
言葉通り黒くなめらかな銃身は二、三十年くらい年季が入っていたが、きれいに磨かれてわずかな照り返しを放っていた。
「なんでこんなことを? ばれたら殺されるぞ」
ザックスはとりあえず銃を受け取りながら慎重に尋ねた。
「わかってるわ。でも、わたし、ドクター宝条のように化学の奴隷になりたくなかったの。どんなに最低でも、人間でいたかったから」
後ろめたさを隠すようにザックスから視線をそらし、呟くように答える。彼女はクラウドのそばまで行くと人形のような彼を痛ましそうに見つめ、そっと白衣の胸ポケットに手を当ててから再び口を開いた。
「実験される人はみんな犯罪者だって聞かされていたの。でも、この前のことがきっかけであなたたちのファイルを調べて、そんな事実がひとつもないことがわかって……恐くなったわ。心の底から。犯罪者はわたしたちで、あなたたち、もちろん犯罪者だって、こんな実験をさせられるいわれなんかないんだって。……それに」
「それに?」
「――ルクレツィアさんならきっとこうすると思ったから」
「ルクレツィア?」
「神羅の化学者の中では伝説的な人よ。もう二十……三十年近く前の人だけれど、わたし、ルクレツィアさんに憧れて神羅に入ったの」
「神羅にはずいぶんと伝説の人がいるんだな」
皮肉混じりの言葉に彼女は戸惑うように微笑んだ。二十代後半といったところで、結構美人だ。彼女も、もちろんザックスも、その伝説的な二人が親子だということまでは知らない。
「ここ、ニブルヘイムの赴任を最後に辞めているわ。結婚してとか、ここで秘かに行われていたっていう人体実験を阻止するために殺されたとか、いろいろ言われているけれど」
「伝説に感謝しなくちゃな。おかげで助かるんだ」
ザックスは銃をベルトに挟みながらクラウドのほうに向き直った。
「行こうぜ、クラウド」
声をかけても彼はもう自分から動こうとはしなかった。何も映していない瞳を宙にさまよわせ、まるで空気のようにただそこにいる。
「だめよザックス。クラウドを連れて行ったら逃げ切れないわ。かわいそうだけれど」
「……久しぶりに女の人に名前を呼ばれたな。いやあ、いい響きだ」
ザックスはクラウドを立たせながらうれしそうに言った。ここでの彼の呼び名は、おもしろくもなんともない「サンプル−A」だったのだ。
「な、なにばかなこと言ってるの」
唐突な切り返しに戸惑う彼女に、場にそぐわないくらいさわやかな顔を向ける。
「ルクレツィアなら二人とも助けようとしたさ」
「そ……そうかもしれないけれど、わたしにはできないわ。あなたたちは実験体の中で唯一ジェノバ細胞のことを知っている生き証人なのよ。脱走したりしたら神羅は即座にあなたたちを切り捨てるわ。二人で生き残りたかったらここにいるしかないの」
「それなのにあんたは逃がそうとしてるな」
ザックスは久しぶりに人と会話している気になって、彼女が言おうとしていることに気づきながら先を促した。
「……ここにいたら人間(ひと)として生きられないでしょう。ザックス、あなた一人なら神羅から逃げ切れるわ。何年でも」
「そう、俺ならクラウドと一緒でも逃げ切れる。神羅のやり方はよく知ってるしな」
彼のことをあまりよく知らない彼女は、能天気なものの言い方に深いため息をついた。
「あなたたちがお互いのためにしてきたことは知ってるわ。クラウドは、誰も近づけさせなかったあなたにジェノバ細胞を注入するよう命じられていたけれど、どんなにうまくごまかしてもすぐに気づかれて……自分にしていたのよ。あなたも似たようなことをしていたわね。でもだからこそ、もしあなたがクラウドだったらどう? 彼の足手まといになっても連れて行ってもらいたいと思うの?」
「クラウドが俺でも俺を連れて行くさ」
「彼の最後の頼みを無視して?」
ザックスはそれには答えずに、やっぱり聞いていたのかと思いながらただ肩をすくめた。
「よく考えて。たとえ逃げ切れたとして、どうするの? 一生彼の面倒を看るつもり?」
「そんなつもりはない。っていうより必要ないな。こいつはひねくれちゃいるがヤワじゃない。ジェノバなんかに負けやしないさ」
ザックスのきっぱりとした口調に彼女は顔をふせ、白衣の胸のポケットを探った。
「そこまで言うのなら、もう何も言わないわ。……行く前に、クラウドにこれを飲ませてもいいかしら。臨床段階だけれど、ジェノバ細胞の働きを抑える効力があるの」
カプセル状の薬物を持つ彼女の指が、声がわずかに震えていた。それに気づかなくても、自分だけを逃がそうとした彼女がクラウドのためにどんな薬を用意したのか、容易に察しがついた。
「……こいつに効くんなら、俺にも効くな」
言いながら素早くカプセルをつまみ、口に持っていく。
「だめよ!」
彼女が叫びながらザックスの腕にしがみつく。もったいぶったように振り返る彼に、彼女ははっとして手を放した。
「……あんたなりにこいつのことを考えてくれたみたいだけど、ちょっと考えすぎたみたいだな」
カプセルを指の間から落とし、無造作に踏む。
「……ごめんなさい」
小刻みに震える細い肩に、ザックスはやさしく手を置いた。
「泣いてる美人を放って行くのは俺の主義に反するけど、悪いな、時間がないんだ」
「……ザックス」
やっと少しばかりザックスという男を理解した彼女は、半ば呆れながら呟いた。
「この埋めあわせは今度会ったとき絶対するからさ」
「今度?……ええ、わかったわ」
強引というかむちゃくちゃというか、それでもお互いの無事を信じている言葉に、彼女はようやく笑みを見せた。
「ん〜いいね。会ったとき、今の顔リクエストしとく」
彼女は何も言えずに扉の向こうに消えるザックスに小さく手を振り、ぎりぎりまでこらえて、あとはあふれる涙が流れるに任せた。ジェノバ細胞の能力は未知数なのだ。ザックスが、クラウドが今後どのように変化するのか予測できる者は一人もいない。だが実験体の末路は今のところ全員が例外なく……発狂している。
人間らしく生きてほしい。だから逃がした。たとえその時間がわずかしか残されていないとしても。
ごたごたと置かれた本棚と薬品棚、手術台、実験体収容用の巨大なビーカー……もうずっとそれしか見ていなかったザックスは、通路に出て別の視界を得ただけで自由を手にした気になっていた。
「うわ、向こうの階段が遠く見えるぜ。近眼にならなくてよかったよな」
荒削りの岩がむきだしになった通路。ぶらさがる何本もの太い鎖や、そこかしこに散らばる古い骨が三十年近く前に行われていたという人体実験を彷彿とさせる。が、その結果を経てセフィロスは創りだされたのか……などと、ザックスは感慨にふけったりしない。
それでも、すぐ隣に扉を見つけたときは、この向こうにも? とちょっと恐いモノを想像する。
そのときだった。
ドクン、と身体の内側を揺さぶる凄まじい衝撃が走った。
聞き取れたのは細く悲痛な女性の声、かろうじて見えたのは記憶してるものより妙に新しい、この屋敷の外観だった。あとは白衣を着た男女や地下の書斎ニブル魔晄炉などの映像が、聞き覚えのない数人の声が、矢継ぎ早に交錯し重なりあって暗い絶望に吸いこまれていく。……クラウドのささやきで目覚める前に見ていた悪夢だ。それが凄まじいくらい鮮烈になって、ザックスの心臓と肺を圧迫した。
獣の咆哮が聞こえて我に返ると、それは自分の声だった。視界は血の色に染まり、背中で巨大な翼が風を起こしているのがわかる。
……ル……レ……ィア……
聞こえるのはかすかな呼び声。セフィロスのではない、知らない男のものだ。クラウドがセフィロスの声を聞いていたとき、ザックスはこの男の声を聞いていたのだ。
血の色の視界の中でクラウドがぼうっとたたずんでいる。「生き物」を見たとたん、猛烈な破壊衝動が全身を貫いた。
「やめろ!」
絶望に向かって全身で叫んだとき、来たときと同じように唐突に衝動は去っていった。どうやらクラウドだけでなく、自分も今夜のように静かすぎる夜は余計な声を聞いてしまうらしい。
おそるおそる身体を点検して、どこにも異変が起きていないことを確かめる。あの巨大な翼も、絶望を紡ぎだしている男が見せた幻だったのだ。だが、ほっとしたのも束の間だった。短時間に二度も発作を起こしたせいで体力を使い果たし、気がついたら床に膝をつき、あっと思ったときにはもう意識が遠くなっていた。
「……ルクレ……ツィア……セフィロ……ス……」
遠くでクラウドのつぶやきを聞きながら、ザックスは意識を失った。
――……来よ。我を解放し……そして……――
――そして、与えよ。……主人に目覚めを――
「……ジェノバ細胞は意識的自覚のもとに作用するけれど、それに関係なく呼びあってることは知ってるな。君も手紙を読んだだろう、博士はあの部屋に生体学的改造を施した男を封印している。その男にもモンスターとジェノバ細胞を使ったんだよ! おそらくサンプルAに表れた症状と似た処置――ある条件で狂暴になるとか、モンスター化するとかいった処置を施していたんだ。サンプルAはそいつと共鳴したんだよ」
男の話し声に目を覚ましたザックスは、初め自分がどこにいるのかわからなかった。妙に体が軽く、かすむ視界は緑がかっていたが、次第に物の形が把握できるようになる。ザックスは内心で舌打ちをした。あの研究室だ。脱走は失敗したのだ。そして……?
「俺の仮説では、ジェノバのことを知ってるほうがより強く呼びあうはずなんだ。その証拠がサンプルAの共鳴さ。だが、残念なことにこのサンプルAとBしかジェノバのことは知らされていない。神羅の人間だったこと――ジェノバの本体を見たことが幸いしたんだな」
「幸いですって?」
別の人間の声が聞こえた。……彼女だ。けれども、声のするほうに顔を向けることはできなかった。どうしても意識が散漫になり、どうかするとまた気を失いそうになる。
「そうだろう。サンプルAは強靭な意思と、何よりジェノバによって常人をはるかに越えた力を得たんだからな。Bにはそのどちらもないが、どのサンプルも見せなかった明確な症状が出ている。俺が視たところリユニオンに参加できるのはこのサンプルBだけだと思うね」
「でも彼は……」
「だからサンプルAも一緒にしておくのさ。魔晄はAをさらに強靭にするし、Bをさらにリユニオンに近づける。Bの変化は実にタイミングよかったよ。おかげで博士を――宝条を出し抜ける」
「わたしはそうは思わないわ。魔晄はザックスをよりモンスターに近づけてしまうし、クラウドを魔晄中毒にしてしまうわ。あなたもその危険性が高いとわかっているはずよ」
「……いつからサンプルを名前で呼ぶようになったんだい。おかしいとは思っていたけれど、まさかあの日、守衛は居眠りしてたんじゃなくて君が眠らせたんじゃないだろうな? 鎖は確かに引きちぎられていたけれど、君がサンプルを逃がそうとしたときにちょうど発作を起こしたんじゃないか?」
「――だったら、どうするの?」
「おい……冗談だろ?」
むりやり顔をあげると、ピースメーカーを構える彼女が見えた。
「あなた自分が何をしているかわかっているの? 二人はモルモットじゃない、人間なのよ!」
「君こそ自分が何をしているかわかってるのか! せっかく宝条を出し抜けるチャンスだっていうのに、みすみす逃すつもりか?」
だんだん自分がいる場所がわかってくる。ぼんやりとだが、クラウドがベッド代わりにしていた手術台越しに、自分がつながれていた壁と、奥の書斎に続く廊下が見えた。……ここは、あのビーカーの中だ。体が軽いのは魔晄に浸けられているからなのだ。高濃度の魔晄は水中にいるのに似ている。重力を殺してしまうのだ。さらに魔晄は人の精神を拡散させ、意思を持つことを困難にさせる。だから精神を乗っ取るきらいのあるジェノバ細胞を注入するとき、魔晄照射も行われるのだ。
「ドクター宝条を出し抜いて、それでどうするの? 神羅に認められて、それでどうするの? 欲しいのは地位? 名声? お金? 昔のあなたはそんな人じゃなかったわ!」
「……そうか。俺に愛想を尽かしたってわけか? それともサンプルに惚れたのが先かな。AとBのどっちだい? はん、所詮は女か」
「ばかにしないで!」
――よせ!
叫んだつもりだったが、声がでるはずもない。彼女は直前で引金を引くのをためらい、わずかな隙をつくってしまった。男がそれを見逃すはずはなく、二人はしばらくもみあっていたが、やがて一発の銃声が決着をつけた。
ビーカー越しに聞いていながら、この音だけはいやによく聞こえた。
彼女がゆっくりと倒れていく。動転した男が銃をどこかに放り投げる。
ザックスは、ただそれを見ていることしかできなかった。
それからどれくらい経ったのかわからない。――もっとも、あの炎の悪夢からどれくらい経っているのかもわからなかったが――気づいている時間がどんどん短くなっていくことだけははっきりしていた。ビーカーから出られるのは唯一、食事のときだけだ。だがそれすらも、よほど気合いをいれていないと意識をはっきりさせておくことができない。気がついたらビーカーから出ていて、気がついたらまたもとに戻っている。その繰り返しだ。あの絶望を受け入れたつもりはないが、もう、どうでもよくなっていた。
“ここから逃げよう”
そんな中で、クラウドは再び自我を取り戻し、状況を把握したうえでこのメッセージを送ってきたのだ。それを読んだとき――クラウドが「戻って来た」ことを知ったザックスは、再度脱走する決意をかためた。それが彼に希望と強い意志を呼び起こした。
“エサの時間がチャンスだ”
この返事を彼が読めたかどうかわからない。それでもザックスは決行した。
「ほーら、エサだぞ……」
食事を運んできたのは兵士ではなかった。実験は縮小されたらしく、宝条とともに主な研究員や兵士はミッドガルに帰っていたし、ザックスもクラウドも、ビーカーに入れられてからというものまったくの無抵抗だったので油断しきっているのだ。
男は呆れるほどあっさりと倒れた。バスターソードは部屋に無造作に置かれたままだったし、ピースメーカーも投げ捨てられたままそこにあった。それらを確保してクラウドのビーカーを開けたとたん、魔晄がすごい勢いで噴出する。うっかりビーカー内の魔晄をそのままにして開けてしまったのだ。転がるようにでてきたクラウドは満足に動けないありさまだったが、魔晄中毒になっていなかったのがせめてもの幸いだ。
そんな彼を半分肩に担いで神羅屋敷から一歩外に踏み出したとき、ザックスはあまりのことに思わず立ち尽くしていた。
「なんてこった……」
久しぶりの外気に肺が驚いたわけでも、壁のない視界に呆然としたのでもない。村にあの大火の痕跡がまったくなかったのだ。あれからどれくらいの月日が流れたのかはわからないが、これほど完璧に復元するには相当時間がかかったはずだ。
――こりゃ、2ヶ月3ヶ月どころじゃないな。半年か、1年か……
頭を抱えたくなった。神羅はすべてを隠蔽することにしたのだ。英雄セフィロスの最後の仕事が、平和な村の壊滅であってはならなかった。それに、自分たち二人の消息がニブルヘイムで途切れてもならなかった。事件を追究する者が現われたとき、この村が注目を浴びてはならないからだ。神羅からは受け取り手のない辞令が何枚か出されているだろう。
てっきり死んだことにされていると思ったが……ということは、両親のもとへは自分の死亡通知は届いていないことになる。安堵すべきかどうか複雑だったが、これでこっそり尋ねても驚かさずにすみそうだ。むろん、脱走に気づかれたら真先に監視される場所ではあるが、なんといっても自分の生まれ故郷だ。人目につかずに村に出入りするのは造作ない。
まずはゴンガガ村に向かうが、最終目的地はミッドガル。ザックスは疑問もいだかずに神羅の根城
に行くことを決めていた。彼とてジェノバのすべてを知っているわけではないのだ。自分がジェノバの本体に呼ばれているとは――ジェノバを解放して“主人(セフィロス)”を目覚めさせようとしているとは、夢にも思わない。
「あばよ、ニブルヘイム(死者の国)」
その一歩を踏みだしたのは「彼」の意志ではなかったが、このときから「彼」の喪失と再生の旅は始まっていたのである。