古の良き影の寺院(日本語版)

ようこそ、女神ネッタの息子、アーガン・アーガーの地下神殿へ。モルボード神殿の「痛みの地」に突き出た部分は、「混沌殺し」の夜の息子に奉献されている。彼は夜が「痛みの地」を覆った時に、地表で冒涜的な混沌の妖魔ブラズノフステルを、持つ鋭利な槍で貫いたのだ。しかしこの寺院の地底部分は「古の良き影の友」アーガン・アーガーに捧げられている。

「影」たちはアラクニー・ソラーラ(グレッグ・スタフォード)に何らかの理由で捨てられたか忘れ去られた材料である。狂える青い月と超越的な赤の月の光が影たちにみずからの「第七の魂」を開く方法を教え、彼らはその助言に従うか応じないかは別として、まず耳を傾けなければならない。「青い月高原」とモルボードの位置についてはこちらを見ること。

概説
皆さんが知っているように、最近のグローランサは、神知者的な「合理的な見方」からして相互に軋轢を醸し、両立しがたい世界観を持つ存在が混在するるつぼと化している。(ニック・ブルック氏とWyrms Footnote記事の両方がこのことについて言及している。(詳しくはこちらを見ること:What happens to One True Glorantha)例をあげて言えば、King of Sartar出版年1993, Glorious ReAscent of Yelm Ivory出版 1995, Entekosiad 出版1996など、そしてEastern Mythologyはいずれもこの傾向をグレッグの商業的な意図に添う形で助長してきた。

彼の製作ノートであるそれ自体目的を持ったWork on Progressの販売に責任を帰することは無理だが、我々はこの傾向にどのように対処すれば良いのか?我々はクリストファー・トールキン(中つ国の世界)のスタイルを採ることができるし、H・P・ラヴクラフト(クトゥルフ神話世界)の継承者たちのスタイルを採ることもできるのだ。

グレッグ・スタフォードの著作は、彼自身が止めさせることを望まない限り、常態として変動する姿勢を保っていくように思える。彼はこの姿勢を続けていて、まるで自分のカルトの中でムルハルツァームの「足台Footstool」に座っているかのようだ。ひょっとすると誰かが「叛逆のテルミヌス」にならない限り、彼は自分自身を玉座から降ろすことができないのかもしれない・・申し訳ない。

それゆえに、ある状況においては「昔の良い影」達の存在がわたしの目には見出せる、しかしそれらを厳密にこの表で定義する能力はない。

1:グレッグは単純のその事項について無視している。(レッド・バード(訳注:ストームブリンガーなどの世界を巡る次元旅行者。テマーティンをサーターの玉座につける)の問題など)
2:彼は問題の解決を求めている。しかしそれを見出せないでいる。
3:彼は本当にそこに問題があることを忘れてしまっている。(滅多にないことだ)
4:彼は問題の焦点をドラゴニュート式に解決してしまった。(彼にはこの状態がグローランサにおいて自然であるという風に考える)

個人的な意見としては、「唯一なるグローランサ」は今もって可能性を秘めていると思われる。(たとえそれがドラゴニュートの「超王」に把握できる意味でしかないにしても)我々はそれらの資料を分類することができるし、少なくとも世界を意図することなしに不整合なものにすることを防げる。

目的:「グロールフィンデル問題」の回避

1:グレッグ的な改変事業の防止を意図しない:幻想世界を拡大するにあたっては避けられない問題を銘記せよ。グレッグ氏に自分の幻想世界を左右する自由があるのは当然のことだ。
2:旧版RPGに対応したグローランサへの懐古趣味:グローランサにただひとりの嵐の王(オーランス)、ただひとりの大地の女神(アーナールダ)、ただひとりの太陽の息子(イェルマリオ)しか存在していなかった時代のことを覚えているか?ある人々はいまだにWIndows95, Windows98など古いOSを利用している。(グレッグ95、グレッグ98)そして昔のバージョンのルールはサンディ・ピーターセン氏などが製作した膨大な量のルールや設定を利用するのに簡便である。

5:(この項目は日本語版のみ)言語障壁によるハンディキャップの緩和。日本人は有数のグローランサ人口を抱えているにもかかわらず、常に言語障壁から後手後手の対応を強いられてきた。これを融和するには、まったく異なるアプローチの仕方が要求されるのかもしれない。


英語版はこちら

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