凄惨なる闘争
ドラキュラはトルコの宮廷で多くのことを学んだ。イスラム圏とギリシアの高水準の教育を受け、スーフィー派の神秘主義やアッサム教団の術を密かに彼のコルドゥン魔術に加えたが、彼は弟のラドゥとは異なり、決して自らの祖国を忘れなかった。意志の弱いラドゥはトルコ宮廷のヨーロッパの水準に比して遥かに豪奢な生活に魅せられて堕落し、スルタンの意志に打ち負かされた。しかし、ムラドが操縦しにくい方のドラキュラをワラキアに戻すことを決めたとき、ドラキュラの心はすでにトルコの宮廷から離反していた。

1448年、彼はウラディスラフをワラキアの首都であるティルゴヴィスタから追って父の復讐を果たし、ワラキアの玉座を一族の元に取り戻したが、祖父や父親の厳しい政策を好まないボヤール達やダネスティ家の刺客に自らの身が風前のともしびであることを知ると、彼は行方をくらまし、ダネスティ家が再びワラキアを手中にした。驚いたことに彼は従兄弟のシュテファン公子(後のモルダヴィア公)をつてに父と不仲だったトランシルヴァニアのイアンク・フンヤーディの元に行き、庇護を求めた。この果断さと機略に感心したイアンクは、彼に保護を与えることを決め、彼の中に十字軍闘士の資質を見た。ニュルンベルクに結集した25人の「龍騎士団」の正式な叙任を受けたドラキュラは、父から受け継いだ魔剣とメダリオンを身につけ、龍騎士の三重のマントを身につけた姿で忠実な私兵を集めた。

コンスタンティノープルやポーランドなど古代の血族達の故地を訪れ、ヨーロッパの各地を遍歴してオカルトの知識を集めた後に、彼はロマ(ジプシー)の民やトルコ人の無法者など、彼自身に対して以外のものに忠誠心を持たない者を好んで親衛隊を作り、「アルマスArmasもしくはドラキュラの斧Axes of Dracula」は彼の類まれな軍略といささか特殊な敵の対処の仕方・・・吸血鬼の弱点や殺し方などを仕込まれた。当時すでにカマリリャとサバトの母体となる集団は出来あがっていて、ドラキュラは彼らの争いの情報を他の定命の君主のように迷信として退けたりしないで、積極的に集めていった。徐々にウラディスラフ・ダネスティは小貴族たちを押さえるためにトルコの力を乞わざるを得なくなり、これでダネスティ家とドラキュルスティ家の与する陣営が逆転した。

1451年にスルタン・ムラドが亡くなって、息子のメフメトが即位すると、彼は父と異なる厳しい性格と野心を明らかにし、難攻不落の都を落とすために精力を注いだ。彼は大砲の設計にハンガリー人を雇い、ボスポラス海峡を封じるために砦を築いた。1453年、ついにヴェネツィアやジェノヴァの傭兵艦隊も防衛をあきらめて逃走し、最後の皇帝であるコンスタンティヌス11世も討ち死にし、千年以上続いた帝国が姿を消した。これはヨーロッパ世界に大きな動揺を引き起こした。暗闇の世界では、「三頭政治」の生き残りである強力なメトセラの公子、トレアドールのミカエル(ベシュタル)が最終的に破壊され、大きな勢力の変動が起こった。

1456年、フンヤーディの死の直後にドラキュラは再びウラディスラフを襲い、今度は彼を討つことに成功した。ワラキアの玉座に今度は腰を落ち着けたドラキュラは、不服従な貴族たちに仮借ない弾圧を加え、周辺諸国全てに目を配り、ダネスティ家の残党を狩った。彼は新たなドラキュラ城を堅固な防衛拠点とするために、不服従な貴族達を駆り出して強制労働に当て、死ぬまでこき使い、開いた貴族の位をより忠実な下層階級の者で満たした。新たなブカレストの都は交易中継地として発展し、彼は表向きはトルコにも友好的な態度を装いながらも、兵士で満たした城砦を国境に並べ、メフメトはこれに不快の念を隠さなかった。しかし、彼の領民は潤うようになり、ドラキュラは国内問題が解決すると今度は目を、国外に、そして「暗闇の世界」に向けた。(1456年、エトリウスはたびたび休眠状態に陥るトレメールの身体を擁して、教団本部をトランシルヴァニアのセオーリスから、オーストリアのウィーンに移した。この行動の解釈はオスマン・トルコの勢力増大によるとも、カマリリャ陣営への傾斜によるともいろいろな解釈が可能である。)

彼がトランシルヴァニアのシビウの町で大虐殺を行った理由は今もってはっきりしていない。彼は放浪時代この都市を訪れたことがあるが、この都に住んでいたドイツ系の住民が、彼の政策に反抗的であったのが理由かもしれない。(しかし幼少のころの怨恨から攻撃を行ったという誹謗は根も葉もない中傷に過ぎない。)彼はキリスト教の修道院を保護し、その経営を援助して自分の姿勢をはっきりとさせた。(正史によると彼の遺体はこれらの保護された修道院の一つに埋葬されたという。)
(彼が治世の間に敵や不従順な臣下を串刺しにしたのは、恐怖を利用する術に長けていたドラキュラの作戦だったが、これはマキャベリ以前の「野蛮な行為を自然におこなっていた」ヨーロッパにおいてすら異様で型破りな示威的行為であったことには疑いがない。WODでは彼が多くの「血族」の敵を持っていてそれと確かめる術がなかったために、彼らを行動不能にする作戦を取ったのだとする。それでもこれは彼の孤独な性向や嗜虐的な雰囲気を打ち消す方向に(残念ながら?)働くかもしれない。)

彼はまつろわない反対勢力の元に間者を数多く放ち、調停できない敵には容赦ない弾圧を加え、彼らの死体を猟奇的に飾って侮り難い存在としての地位を確立していった。彼はドイツ人やハンガリー人のこれまで特権を誇示していた商人階級にも税を課し、反抗的な者を処罰したことで「吸血鬼」の悪名をこうむるようになった。彼の宿敵となったダネスティ家の後継者、ヴラディスラフの息子ダン三世は、彼を引きずり下ろすために策略を惜しまなかったがいずれも失敗した。(彼は1460年に処刑された。)敵対的なツィミィーシ族の血族については、彼は配下の「斧」達を用いて彼らの一人を捕らえ、初めて自らをグールとした・・・しかし彼は「血の呪縛」にかからない稀有な体質を持っていて、これ以後、年老いることも、血族の血に不自由することもなかったのである。(Transylvania Chronicleによるとダン・ダネスティはツィミィーシ族に「抱擁」されていたが、ドラキュラに捕らわれて血を飲み干されたという。)

ツィミィーシ達が彼に対する態度を決めかねている間、日の当たる世界では、スルタン・メフメトが目障りなワラキアを服従させる策を巡らせていた。ドラキュラとトルコの戦端が開かれたのは、メフメトが彼に正式な使者を送ってからのことであった。

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トルコとの戦争と血族