暗闇の生の正体
ルーマニアのその後

1481年にメフメトが没した後も、オスマントルコ帝国は膨張を続け、セリム一世の治世にマムルーク朝を征服し、聖地を征服してその後トルコはイスラム世界の長として君臨した。スレイマーン大帝の元でウィーンが包囲され、16世紀は東欧はトルコの時代であり、ルーマニアはその影の下にあった。彼の死後に衰退が忍び寄っても、ルーマニアはトルコや、勃興しつつある北の大国ロシアなどの圧力に怯え続けた。


ドラキュラはルーマニアでは長く英雄として称揚され、彼の名誉をたたえる物語がその悲劇的な最期と共に多く創られた。しかしハンガリー王やドイツ商人達の流した誹謗と中傷が、西方では主流になり、やがてドラキュラ伝説を生み出した。(暗闇の世界では吸血鬼達が仮面舞踏会の掟を生み出したのにもかかわらず、ドラキュラはいわゆる森の中に木を隠すようにして自分から自分が吸血鬼となったことを広め、逆説的に絶対的な自分の安全を獲得したのである。)

(後にミハイ・ビテアズル勇敢公(位1593〜1601年)はドラキュラの功業を旗印にして、1600年ルーマニア三国を統一したが、近隣の列強勢力(オスマン帝国、オーストリア及びポーランド)がルーマニア人による強大国の建設に抵抗したため、この統一は長く続かなかった。彼はすぐに殺害された。それでも三国の統一は後の歴史に大きな影響を与えた。)


吸血鬼ドラキュラ
ドラキュラが最終的に血族となったのは、彼が1495年にサバトの群れに襲われた時だった。しかし彼はこのことを予測していて、密かに彼らと、新しく生まれたばかりのカマリリャの護法官の一団が鉢合わせするように仕向けた。ドラキュラは彼らの争いの中に「斧」隊を投入し、サバトの首領達を捕虜にした。その中には、強力なメトセラであるタバクTabakと、その子供であり、ルゴジの同盟者であったランバッハ・ルスヴェンが含まれていた。タバクは休眠に陥り、ランバッハは拷問部屋でいかなる《訓え》でも脱け出せないよう縛められた。

ドラキュラは彼らを串刺しにして活動不能にした後、ランバッハに、自分を「血の呪縛」抜きで血族にしてくれるなら解放してやろうと取引を持ちかけた。彼はもうすでに人間の生に倦んでいたため、これは渡りに船であると思われたのである。震えおののくランバッハは同意し、ドラキュラはその夜、血族に変わり、永遠の夜を生きるようになった。彼はその場でランバッハの親であるタバクを同族喰らいし、ランバッハを約束通り解放した。(もちろん、彼が無害であることは証明されていた。)

しかし、彼は生前も死後も有名過ぎたため、血族社会の掟は逆に働き、彼はたやすく両陣営双方の標的となった。その後、彼はサバトに加わり、常に歴史を操ってきた人形使い達の操り手になろうと試みたのである。彼はカマリリャの支配とアンテデルヴィアンの脅威よりも、サバトの自由主義を好んだが、カマリリャの貴族主義の方を、サバトの粗野で野蛮なやり方よりも好んだ。彼は永遠の生命の中で、自らを「獣」から解放するもの・・・常に彼が人間であったときにトルコやハンガリーのくびきから逃れようとしていたように・・・伝説のゴルコンダを追求し、そのためにデュルガ・シンに師事した。(彼女についてはこちらを見ること)

ブラム・ストーカーにルーマニア人の学者を介して多くのヒントを与えて「仮面舞踏会の掟」を脅かすだけの秘密を漏らしたのは、彼がカマリリャの「洪水前の存在」を闇雲に否定する態度を肯定しなかったからである。いずれにしても、彼はすぐにサバトにも幻滅して脱退し、19世紀にはアンコニュの非協力的な一員となった。彼に敵対しながら彼を滅ぼすだけの余力を持った血族は両陣営のいずれにも存在しなかった。そして今や彼の真の動機を知る者はいない。

アンテデルヴィアンの有力な敵手と化した彼は、サバトから離れてからも彼らについての知識を積極的に吸収し、膨大な知識を蓄えた。わずか400年しか生きていない血族でありながら、彼はすでに多くのメトセラを上回る力を得ていた。彼のことを単純に血族達の守護者であるとは、生きていた彼が決して単なるキリスト教と西方世界の十字軍戦士でなかったように、とても言えない。しかし、彼がゲヘナに起こることの鍵を握っていることは疑いがないのである。

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