親愛なる大地の祖母へ

 幾度もアマラスとファラガスの砦を通り抜け、これほど幻想が失われても、ある意味でまだ十字架を信じていることは、余が「休眠」に陥った血族の顔を十字架にかけられたキリストの顔に象り(長い年月の血に対する「飢え」に苛まれ、血の夢に苦しめられているはずなのに)、彼らの休息を聖墳墓の下で三晩やすらう彼の姿に描かせていることからも判るだろう。怒られるな、そしてキュベレーとアッティス、タンムズとイシュタルの話などを引き合いに出さなくても結構。このことで異教の時代に生まれた貴方と余の意見が合意することは決してないだろうから。余にとってゴルコンダとは、常にキリストに重なるものであった。

 貴方の手紙、確かに受け取った。確かに長年の友から消息を伝えられるのは嬉しい事だし、それが母親のように慕っている方からのものならなおさらだ。貴方の《造躯》についての警告は謹んで承っておく。ただし、貴方はいつもながら「暗闇の世界」の表の世界に対する影響力において過大評価をするきらいがあることは否定できないと思うが。余の一族を独立したグールの家系と貴方がみなしていることを余が否定しきれるとは思えないが、不死の者達は人間がどれほど複雑な存在になりうるか往々にして忘れがちだ。人間から血族に変わるのは難しい作業ではない・・・多くの者は否定するだろうが、少々の創意工夫と機知があればできることだが、血族から人間に戻った者はいない・・・少なくとも伝説や噂話を除けば。余のように自ら抱擁を選んだ者と強要されて血族と化した者の見方が異なるのもある意味当然のことだ。

 余や貴方が望んでいること、アンコニュの長老達が望んでいること・・・ゴルコンダと呼ばれている精神の、悪しき事を欲する欲求からの解放は、メイジ達のいう「昇華」、ツィミィーシ始祖の言う完全な「解脱」と違いがあるのか?もしいくつもそう呼べる形態が存在するのなら、それらの間に緊張もしくは争いが存在するのか?これは答えられない形而上の問題と言ってよい質問だ。人間性とゴルコンダの関係が不可分であると考えるならば。カマリリャの者たちが喧伝しているようにゴルコンダの境地が容易く失われるようなものならば獲得しても意味がないし、獲得することで血族としての生の価値観を失い、「癒し手」達のように自発的にアマランスを受け入れる存在であることに気づくことがゴルコンダの真実ならば、余はそんなものを受け入れたくない。貴方もそうだろう。

 余は貴方以上にアンコニュの長老達と交わり、サウロットの伝承について研究したと言える。サウロットが単なる伝説上の存在でも、ヴァンパイアの聖人ではないことも確かめた。サバトに加わっているアドナイ(ユダヤの神の異名を名乗るのはどういう意図があってのことか…)のサルブリ戦士団が、残った同族である七人の「癒し手」達とアンコニュの「監視者」たちとどのような関係にあるかということも、重要な手がかりとなるかも知れない。いや、余は貴方のようにマルシュアス達を笑うつもりはない。不死の呪いを受けた者には諧謔を感じるなにものかがあるとは信じられない。(全てに輪廻に反抗する虚しい諧謔を見る「逆説の道」をたどるラヴノスたちの見方には完全に対立しているような気もするが…)

 伝説によるとゴルコンダに至る過程にはいくつかの決まった参入儀礼があり、宗教の入信に似ている。それは「嘆息の儀Suspire」と呼ばれることもあり、「悲しみの道Via Dolorosa」と呼ばれることもある。キリスト教徒がキリストの人生をたどるように、ガブリエルの言うカインやサウロットの人生をかたどり、「髑髏の丘Hill of Calvary」に登っていく。結局、不老不死の者にとって重要なのはなんのために生きるかだ。余が垣間見た秘密の中で、サバトの者たちが隠してきた秘密は、アンテデルビアンが決して滅びないということ、我々の霊魂が常に血によって保たれ、長い歳月と世代の間に混ざり合ってしまっていること…ゴルコンダとは、救済ではないかもしれないが、求めるだけの価値があると思う。

 バングラディシュを中心にラヴノスの大部分が、ロシアではノスフェラトゥ族が全滅したと聞くが、我々に下された審判の元に、個人的な救済など、なんという悠長なことを言っているのだと思われるかもしれない。しかし考えてもみられよ。貴方にも、他のどの長老達にも時間はあったはずである。この点で余はサバトに同意する。彼らがいかに笑うべき道化であるにしても、その道化ぶりを見て喜んでいる我々は一体なんなのか。東洋の鬼人達は血を吸わず、他者から精気を奪うだけで生き延びること、サウロットが彼らからプロメテウスよろしく秘密を盗んできたこと、余は彼らに盗むべきなにかがあるのだとするのなら、それは彼らの不完全性を「西欧」が「東洋」に常に混ざり合ってきたことを単に示すだけであると思う。


 神を僭称してきた血族達の活動の人間に対する影響の過大化は、我々の聖人達と英雄達の何人かが本当に彼らの英雄であったにしても、余は支持できない。キリストがマルカヴィアンの冗談の一人であったとしても受け入れる用意があるとは言えない。余はこの点でカマリリャの者に同意する。ゲヘナと「薄い血の到来」こそがゴルコンダの証明であり、カインですらゴルコンダを求めているのだとするのなら、アンコニュの連中のしていることも間違いではなくなるだろう。ジハドは我々を救わない。余が自らの剣を振るうのは、ジハドを止めるためである。



 今は休みたまえ、余が貴方に代わって戦う。その間にブラム・ストーカーでも読むことだ。


      ワラキアの永遠の君主、変わらぬ貴方の弟子にして友
         
                          カズィクル・ベイKaziglu Bey
      
                           ヴラドVlad


Children of the Night準拠(ドラキュラの特性値はソースブックごとの相違が激しい。)
ツィミィーシ古氏族、第五世代(何度も同族喰らいを行っている)
機知6、策略7、言語6、サバト知識5
獣心6、コルドゥン鮮血魔術5、造躯5

ドラキュラの生涯についてはこちらの項を参照のこと


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