串刺し公の血統
彼の祖父、ワラキア公ミルチア(在位1386-1418)はワラキアの領土を最大限に拡張し、また神聖ローマ皇帝シギスムンドの恩顧を経て、「龍の騎士団Order of Dragon」の一員として領土を繁栄へと導いた。デュルガ・シンと呼ばれる謎めいた古代ラヴノスの「血族」の知己となり、超自然の世界の実態を垣間見せられたミルチアは、凄まじい労力をツィミィーシ族やその他の闇の勢力の介在の排除にも注いだ。彼の一族は以後ドラキュルスティ(龍騎士)家と呼ばれるようになった。
ミルチアが老いに倒れると、重圧はその息子である「龍(ドラクル)の公爵」ヴラドの双肩にかかった。彼もまた、シギスムンドに忠誠を誓い、イスラム教徒の攻撃からキリスト教世界における防波堤としてワラキアを護る事を固く誓った。しかし、強国の間にはさまれた小国の少なからずたどる運命に抗うことは出来ず、彼は詭計と偽りの誓い、背信などを用いて自領の確保に専念しなければならなかった。後背のキリスト教の盟友達は一致団結してトルコにあたるよりは、むしろ互いの足の引っ張り合いに専念していたからである。苦闘のあいだの1431年頃に第二子が生まれ、父親と同じヴラドという名前がつけられた。(彼はゆえに「龍の息子」、ドラキュラと呼ばれた)彼は兄に小ミルチア(祖父と同じ名前)、弟にラドゥがいて、ともに育てられたが、その後に一家を襲った惨劇により、トルコの宮廷で人質としての生活を送ることになる。
ヴラドはトルコのスルタンにも忠誠を誓い、彼の軍隊をトランシルヴァニアに導き入れた。しかし、彼はスルタンの軍勢を裏切ってハンガリー軍に情報を提供し、ヴラドはその混乱の隙に両大国によって奪われた自領を回復した。スルタン、ムラド二世は彼の臣下の怪しい行動に疑念を表明し、彼に一族とともに宮廷に来て釈明するように命じた。ヴラドは行ったが、彼の長子であるミルチアを命に反して残していった。ヴラドは殺されず送り帰されたが、彼の二人の息子、ヴラドとラドゥは宮廷に留められた。そして子供のヴラドはアドリアノープルで1448年まで人質としての日々を送ることになる。
当時、トランシルヴァニアでヴォイヴォドと目されていたヤンク(ハンガリー語でヤノシュ、英語でジョン)・フンヤーディは、ミルチア公との共闘の後、当時北方の強国であったポーランドと神聖ローマ帝国の認定のもとに十字軍の統領と目されていた。(しかしChildren of Inquisitionなど文献によっては、彼はこうしたワラキアのドラキュルスティ族の繁栄を嫉視し、彼らのトルコに対する軍事的成功にかえって自らの地位への脅威を感じて積極的に彼らを害する計画を立てたということになっている。)彼は西方諸王の請求に応えて対トルコの軍を挙げたが、1444年、ヴァルナにてキリスト教連合軍は、圧倒的兵力の差によって小ミルチアの臼砲部隊の活躍にもかかわらずトルコ軍に粉砕された。ヴラドはフンヤーディの戦略の過ちを非難し、両者の関係は冷却した。
この両者の間隙に乗じて、ミルチアの家系の長年の敵だったダネスティ家がワラキアで台頭した。彼らはヴラドと彼の後継者である小ミルチアに対して刺客を放ち、つねづねミルチアの一族の持つ神秘的な力に対して脅威を感じていたツィミィーシ族の血族が暗殺を支援した。二人はワラキアの沼沢地で討たれたが、ヴラドは死ぬ前に己の運命を悟り、家伝のデュルガ・シンに与えられた宝剣に、龍騎士団のメダリオン、そして遺書を忠実な村人に、自らの後継者に渡すよう託していた。ヴラディスラフ・ダネスティがワラキアの公爵として認定され、1447年にフンヤーディの元でモルダヴィア、トランシルヴァニア、ワラキアの三国同盟が結ばれた。ムラド二世はこの状況を苦々しく思い、人質の一人を解き放って情勢を変える道を選んだ。こうして、1448年、後の「串刺し公」ヴラドはその機敏さと才覚を買われて解放され、故郷へと父の位を奪還するために向かった。
「吸血鬼ドラキュラ」に戻る。
「闇の世界の紳士淑女録」に戻る。
凄惨なる闘争