GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆イスラエル王国の形成と崩壊
* 士師(しし)の警告
  ヨシュアに続く次の時代は、士師時代とよばれている。 いわゆる「さばきつかさ」の活躍した時代である。 士師とは、一口に言って、部族内部の有力な指導者をさしている。 しばしば宗教的、あるいは軍事的指導者としての役割をしいられる場合もあったが、 本来の職能は、十二部族宗教連合の集会において、人々に、 契約と律法の忠実な履行を促し、それを監視することにあった。 部族間連合は、こうした士師たちの力によって、支えられていたのである。
 
 時代は、ヨシュアのカナン侵入に続く初期の農耕時代から、 イスラエル王国形成にむかうまでの約二〇〇年。紀元前一二〇〇年から一〇〇〇年の時期に相当する。 イスラエル史の複雑に屈折した流れからすると、それは比較的平穏な一時期であったが、 しかしやがて、イスラエルを内部から震撼させる問題が、この時期に胚胎しはじめていたのである。
 
 すでにヨシュアが死に、ヨシュアにしたがって戦った勇敢な戦士たちも死に、 「イスラエルの子らは、もはや戦争を知らない」と記者はいう(士師記三・一−二)。
 数世紀にわたって繰り返された解放闘争は終結し、新しい生活がはじまっていた。 イスラエルは、カナンの各地に子孫を増やし、緑の耕地を拡大した。 野にはオリーブの木がしげり、いちじくの木が実を結び、ぶどうのつたが花開いていた。
 イスラエルの子らは、もはや戦争を知らない。歳月は、イスラエルをどのように変えたか。 士師記の記者は、この平和の中に、イスラエルの変心をみる。それは、 「イスラエルびとがカナンの住民と契約を結び、彼らの神の祭壇を破壊することをためらった」(士師記二・一−二) 結果であったという。「イスラエルの人々は、主の前に悪を行ない、バァルとアシュタロテに仕えた」 (士師記二・一三)と、記者は告発する。
 問題はイスラエルの民が、異邦の民カナンびとのあいだに住んで、 異邦の神バァルとアシュタロテに仕えたこと、 「彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこにあたえて、彼らの神々に仕えた」(士師記三・六)ことにある。
 
* 多神教への傾斜
 今や、エジプト脱出以来のモーセの偉業も、ヨシュアの輝かしい戦勝の記録も、 すべては空しいものとなりつつある。 イスラエルの父祖たちが、神の聖なる戦いによって獲得したものを、 その子らは、カナンの花嫁とひきかえに、敵に譲り渡してしまった。彼らは戦争を知らない。
 ヨシュア記は、戦勝の記録であった。士師記は一転して、 平和によってむしばまれたイスラエルの現実を語る。 否、士師記の記者は、この現実を糾弾し、戦争を知らない子らを、告発するために、 これを書いているのである。彼らが平和の契約を結び、その祭壇の破壊をためらったカナンの民。 彼らが手に入れたその花嫁。それらが実はすべて敵であることを、 戦争を知らない子らに教えねばならない。 それらは、聖戦の「残敵」、イスラエルを試みるために、神が残しおかれた「敵」なのである。こう記者はいう。
 このようにして記者は、イスラエルの「残敵」を数えあげることから、はじめねばならない。 士師記の記者が告発し、弾劾するのは、沃地文化におかされ、多神教化したヤハウェ主義であり、 バァル主義化したヤハウェ宗教であった。 ヨシュアの没後二〇〇年、イスラエルの戦争を知らない子らが当面した問題は、 このような意味において、イスラエルをゆさぶる根本問題と直結していた。
 皮肉なことに、この問題がイスラエルを揺るがす根本問題として自覚されたのは、 イスラエルが王国結成に踏み切った、まさにそのときであった。 士師時代に続く、ダビデ、ソロモンの時代である。 この栄華をきわめたイスラエル史の絶頂期の王国時代にカナン宗教の本質をなす 「神−王」イデオロギー(王と神とを同一視する信仰体系)が、 仮面をあらわにすることになる。 そのイデオロギーを、イスラエル宮廷が真先に迎えいれる。
 
 ヤハウェへの忠誠は日増しにおとろえ、いたるところで、 階級の分裂と対立が起こりはじめる。 かの契約共同体、神聖ヤハウェ共同体は、虚像化し、大きく南北王国に分裂して崩れはじめる。 イスラエルの黄金時代は、わずかソロモン一代で終結した。 ただちに反逆者があらわれる。革命が起こる。外敵が侵入する。シャーロームは失われてしまった。 十戒は形骸となった。このようにして預言者の活躍する時代がくる。
 預言者たちが攻撃したのは、似て非なるバァル主義的ヤハウェ主義にほかならない。 現実の王にたいする失望は、理想の王、救世主=メシヤへの希望となって噴出した(イザヤ書七、九、一一の各章)。 似て非なるヤハウェ共同体にとってかわる「新しい契約」の望みとなって、 預言者の心に横溢した(エレミヤ書三一・三一以下)。
 
 いったい、彼らの告発するバァル主義とは何であったか。そもそもカナン地域のバァル神と は、どのような神なのか。預言者たちは、それをいまわしい偶像崇拝、多神教、淫らな宗教、 不道徳の宗教として断罪した。
 こうした預言者たちの徹底したバァル神批判は、文化史的にみた場合、 カナンの農耕文化の基本原理にたいする挑戦であったということができる。 天の父なる神ヤハウェを唯一の神とし、バァル崇拝の徹底的排除を叫んだ預言者の声には、 「豊饒の女神」、「大地の母」を讃美するカナンの神々の信仰圏とは、 真っ向から対立するものがある。
 このカナンの神々とは、いかなる系譜の神々であったか。預言者たちの批判が、執拗であれ ばあるほど、それは逆にカナンの神々が、イスラエルの民に圧倒的な影響を与えたことの、 何よりの証拠ではないか。なぜにイスラエルの民は、ヤハウェからバァルへと、 彼らの心を傾斜させたのか。なぜに豊饒の女神、大地母神へと、彼らの思いを移したのか。
 ここには、イスラエル民族史をつらぬく根本問題が露呈されている。 砂漠の民の砂漠の宗教が、農耕文化の真只中で直面した問題が露呈されている。 図式的にいえば、それは、沃地宗教のヤハウェ宗教化であり、 逆にまた、砂漠的なヤハウェ宗教の沃地宗教化でもあった。 このふたつの交錯する一本の線の上に、キリスト教成立の地平がひらかれてくる。 そこに、旧約聖書から新約聖書への移行の謎がある。
 われわれは、こうした重要な地盤となった沃地文化の宗教について、その神話と神々の機能 を知る必要がある。それはイスラエル民族にとって、まったく異質の信仰圏であった。
 
* バァル神話(死と再生)
 バァル神話にみる死と再生のドラマは、明らかに季節の交替のドラマがある。 バァルが倒れるとモトが支配し、モトが倒れるとバァルが支配する。 この交替のドラマのなかで、雨季と乾季が交替し、播種の季節に収穫の季節が継起する。 バァルの再生は雨季の開始、モトの支配は乾季の開始の宣言である。
 バァル神話は、一年を二分する地中海世界の雨季と乾季の交替のドラマによって、 生き生きとしたリアリティをあたえられている。 しかも読者は、このドラマの展開が、決定的に、女神アナトの手に握られていることに気がつかれたに違いない。 なぜなら、花婿バアルの再生は、アナトの勝利によって、もたらされるからである。 アナトは勝利の女神なのだ。
 われわれは、死の神モトとの闘争に、アナトの勝利の舞をみる。 アナトは右手に剣、左手に白布をつかんでおどる、古代オリエントの勝利の女神の原型をうつしだしている。 この女神が問題なのだ。
 なぜなら神話の目的は、この勝利の女神と再生の男神との婚姻の叙述にあるからである。 再生のバァルとの祝婚の歓喜のなかで、アナトは、バァルの子を宿す。アナトに宿った生命は、 大地の豊饒の確証であった……。
 
* 治癒神への転化
 こうした美しい女神たちの花婿として、穀物霊の死と再生を演じた男神が、 やがて驚異と不思議の病気なおしにかつやくするときがくる。 時代はくだってアレクサンダーの東征(紀元前三三四)以降、 ポリス国家に支えられたギリシアの古典的世界の没落から、 ローマの覇権が地中海世界に確立する約三百年間、 いわゆるヘレニズムの時代に相当する。
 
 宗教史的にみると、この時代は、遊行(ゆぎょう)する神々の競合と葛藤の時代であった。 というのは、都市国家の崩壊の結果、守護神の地位を失ったポリスの神々が、 故郷を喪失した人間たちのように、各地を彷徨しはじめることになるからである。 驚異と奇跡の病気なおしの神々は、アルカイック(古風素朴)な死と再生の神の痕跡に加えて、彷徨し、遊行する神の明白な特徴をおびて活躍する。
 われわれはそれを、古代フェニキアのエシュムン神や エピダウロスの驚異の治癒神アスクレピオスに明瞭に読みとることができる。 とりわけアスクレピオスは、いかにも不思議な再生と復活の神であり、 彷徨し遊行する驚異と奇跡の病気なおしの神であった。

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