◆愛の姿 理想の愛の姿は、シャーロームや、曼荼羅の成就で求められるべき、 甘い愛に包まれた世界のことかと思います。 即ち、 聖書の宗教では、平和=シャーロームが確保されている社会、 仏教では、例えば真言密教的には大日如来を中心に描かれた曼荼羅(まんだら) の世界を想定することが出来ます。 限りなく無の世界=砂漠において発生した聖書は、 豊な世界=豊饒(ほうじょう)な土地を目指して、 ひ弱な個々の人間の良心(魂)を結集して大いなる力とし、 その目的=シャーロームを確保しようとします。 一方、太陽の恵みを得て生産旺盛な土壌に萌芽した原始仏教は、 空空寂寂と申しましょうか、寂滅為楽と申しましょうか、そのような境地を目指して、 有り余る有名無名の資産財産を総動員したような(油絵のように何重にも塗り固めたような) 数々の難渋な行法を繰り返して、おぼろげな一点の灯火へ収斂しようとします。 更に考えますと、 聖書では、シャーロームの意義は、万物が完全に成熟した状態にあると云うことでしょう。 例えば、完熟した果実、泡が溢れんばかりに注がれたビールジョッキ、 焚火の上で油が滴り落ちている焼肉……。 仏典では、曼荼羅の意義は、個々人の行の如何に応じて配された 色彩豊な構図にあると思います。 その結果例えば、干上がった塩田に生成された塩、飲み干された金杯の底に浮かび上がる荘厳な絵図、 枯山水の庭……の模様 − 涅槃 − が瞼に浮んできます。 神道では、時処位(構図の項参照)が円滑に機能することです。 個々人にとっては、鏡の中の自分そのものであると思います。 鏡を見ることで、自分のなすべき愛の姿が分かる(導き出される)のです。 〔目の前の鏡の中を視てみよう の項参照〕 |
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