◆愛の行方 私共は生き物です。 私共は日々(あたかも脱皮するかように)止むことなく進化し成長し続けています。 シャーロームが確保された暁には、その坩堝(るつぼ)の中で、 人々は互いに活発に活動しあい、成長しあうことで、やがて外へ溢れ出ます。 溢れ出ることで、即ち不均衡な状態が再現されます。 シャーロームが確保された時間は、瞬きのように一瞬の出来事のように考えられましょう。 涅槃の境地、即ち人々は一時(ひととき)の安らぎの後、 生身なる故の性、時を経ずして次の世に至る、つまり輪廻転生の理を体現することになりましょう。 私共は、宗教上において、「愛が満たされた理想の世界」と 「悪(又は苦)の横行する現実の世界」とが並列的に存在することを前提に考えてきました。 しかして、聖書では、人々に対する神の愛に応える形で、 人々による神への愛と、人々の人々に対する愛(隣人愛・兄弟愛)が義務付けられています。 つまり、キリスト教は、”愛の宗教”と云われる由縁です。 仏教では、”慈悲”が尊ばれております。 注:「キリスト教の「愛の宗教」について、 この場合の「愛」の意味は現代日本語によるものです。 古語の場合は、「愛」は「愛着、執着、愛執」の意味になります。 それで、キリスト教が日本に伝来したとき、キリシタンはキリスト教の「愛」を、 「大切・思い・懇切」といったふうに訳していました。 明治になってから、『聖書』が「愛」の語を堂々と使うようになり、 その結果、日本語そのものが変わってしまったのです。 そのため、「愛してはならない」と教える仏教の教えのほうが、 奇異に思われるようになりました。 仏教からすれば、庇を貸して母屋を取られたような気がします。」 (ひろさちや『仏教とキリスト教』)。 つまり、キリスト教の愛とは、仏教での慈悲と云うことになります。 では、その先には、後がないのでしょうか。 「三すくみ」と云う考え方があります。 以上を成就させるものとして、”三すくみ”があるのです。 〔二元論の項参照〕 現実と理想との二元論に、 (自己の)感情(気とも、また霊とも)と云う要素を加えた三元論です。 人(現実の世界)は愛(目的・成果)を求め、愛は道徳律(理想の世界)を醸成し、 道徳律は人を大成させるのです。 その逆は、道徳律は然るべき愛の姿を想定し、愛は人の魂を呼び起こし、 人は更なる道徳律を構築しようと精進努力するのです。 * 感情について @感情を動的(心情的)な営みとすれば、それは気、 A感情を静的(理性的)なものとして捉えると霊、 と云えるのかもしれません。 |
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