下タ沢会によせて(覚書)

その頃どれだけの従業員がいたろうか

 ともあれこうして600人もの人が動員されているが、それでは、当時どれだけの人 が鉱山に働いていたるうか、麓さんの鉱山史によれば、阿部恭助日記によるとして、 この戦争には関係ないが、次のように書いている。
 
   慶応4年宗門改総人数
部落名   人数  男  女 小屋数
田 郡    515  248  267  86
元 山    618  313  305  110
赤 沢    505  232  273  96
獅子沢    349  176  173  78
笹小屋    332  159  173  65
御台所諸働  863  863  -   -
 計    3182 1991 1191  435
◎御台所諸働きというのは銅山従業員と思われ、下の表の役方、金工、諸働きがこ れに該当すると思うので、これを合計すると、各部落の従業員数は、次のようにな る。
田郡 145人、元山 153人、赤沢 138人、獅子沢 212人、笹小屋 110人、計758人
 これによれば、2年程で約100人減っていることになる。
 
(これでは、よくわからないので)
   明治3年太政官届(と思われる控)
部落名 小屋数 惣人数(内訳)役方 家族 金工 家族 諸働 家族 水呑
田 郡  87   651      14  86  43  348  88  46  27
元 山  106   683      9  31  50  361  94  31  107
赤 沢  83   595      11  27  45  342  82  23  64
獅子沢  64   500      5  18  -   -   207  232  38
笹小屋  62   365      55  149  -   -   55  34  72
 計   402  2794      94  311  138 1052  526  366  308
 
 上記の表に関連して、次のような説明がある。
 「これによると、役方のもの 94人、三沢金工働 138人、同じく本番働 264人、製 錬その他の坑外諸働 262人、合計 758人が銅山従業員で、2036人が家族その他のも のある。この調表で奇異と思われるのは、家族数であって、金工とその他の働人と によって、本人と家族の比率が著しく相違している。調査の基準が明らかでないの で、何んともいゝかねるが、家族労働者の取扱方なども関係があるかもしれない。 また水呑と称された人数が寛政の732人から308人に減じていることも注目されるこ とである。」
 
 ということだが、これによると諸働き 526人を本番働き 264人と製錬その他坑外 諸働き 262人にわけている。水呑の308人は家族数の2036人の中に含まれている。
 よくわからないが、本番働きというのを、坑内で働いている人と考え、役方を今 風に係員とすると、つぎのように人員構成を分けることもできる。
 係員 94人、坑内夫 402人、坑外夫 262人、計 758人
 
 水呑のことについては、やめようかと思ったが、前記の表では人数だけで、何軒 くらいあったかわからないので、その寛政の頃の表には人数と軒数も書いているの で、明治の80年くらい前のことなので比較にならないと思ったが、参考までに書い てみる。
   山内水呑家数及び人数(寛政元年 = 1789)
   田郡 元山 赤沢 獅子沢 笹小屋   計
家数  30  37  27   45   24   163
人数  175  165  143   164   85   732
 
 ということで、明治になっての家数は割出しようもないが、仮に(こんな計算は 成立たないわけだが)寛政の732人に対し明治の308人は42%となるので、この42 %を寛政の家数にかけてみると、(四捨五入)田郡 13戸、元山 16戸、赤沢 11戸、 獅子沢 20戸、笹小屋 10戸、計 70戸となる。これは全くでたらめな数字で、まやか しなのだが、だまって見ていると何んとなくそんなものかナーという気にもなって くる。

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