下タ沢会によせて(覚書)

長坂金山のこと

 この長坂金山について、麓さんの鉱山史には次のように書いている。
 「元禄八年(1695)尾去沢地内に長坂金山が発見され、日前三ケ月或いは五ケ月 山師寺田八左衛門、岩田五表絵その他花輪のものが稼行したという。翌九年大盛と なり小屋数百五六十軒も立ち、正徳の頃(1711〜16)まで継続したというが、宝永 (1707〜11)初年に阿部小平治が銅山を稼行した。」
 というところをみると、金山としてはいいとこ20年くらいであったと思われる。
 
 鹿角市史(第二巻上)には、次のように書いている。
 「田郡の南の長坂金山は、元禄八年(1695)銅山として見立てられ、翌九年暮か ら金山にかわり、元禄年中(〜1704)金山として大盛を見た後、また銅山となった。 『開立年限附』には山師井上仁左衛門が三ケ月1,000両の御礼金で稼ぎ、同11年12月 11日より晦日までの間に2貫546匁3分1厘を出したと、その盛山ぶりを伝えている。 『金山由来之事』によると、元禄卯の12年より午の15年まで四ケ年が大盛で、7分 3分の掘分けとし、7分は上納、3分は山師分であった。その境界は……」は省略し て、その見立初めの状態は沢出家由緒書に詳しいとして、次のように書いている。
 
 「元禄八年長坂山を見立御忠信掘願上げ候処、願の通り仰付けられ鋪口を附普請 いたし切延べ候処、ノ(はく)に相当り候ニ付直々御訴え申上げ、山師え相渡し銅 山ニ相成り大直利掘り申し候。同九丙子年より三ケ月三千両宛御礼金差上げ、尤も 三ケ月壱度ツヽ取調べ、其後売上高七分三にて七分ハ御上え三分ハ山師頂戴仕り、 此節御奉行として三人宛外ニ御目付壱人御詰合ニ御座候。尤も家数八百軒余之れ有 り御役所之れ有り、諸願書并びに吹金書上帳は別帳ニ之れ有り。同十二年より鋪口 え水風呂相建て日々わらんじ等迄洗い候ても弐三拾匁ツヽ取申候。」
(忠信掘とは、自費で普請掘りし藩主に献上する、という意味であろうといってい る。)
 
 そこで寺岡さんが、半蔵事善右衛門が重左衛門娘と縁組みしたという、次の行にこ れと同じことを書いているが、若干字句の違いはあるが、内容は殆んど同じである。 元は同じ資料だと思うが、参考迄に書いてみると。
 
 「元禄八年長坂山を見立御掘願上候処願の通り仰付られ、鋪口附普請致し切延候 処ノ(はく)に相当り候に付直に御訴え申上、献上仕り直に山師へ相渡し金銅山に 相成り大直り掘申候、同九年三ケ月三千両宛御礼金は、三ケ月一度づゝ取調べ其後 七分三にて七分は御上に、三分は山師に丁戴仕、此節御奉行として三人候外に御目 付様御臺一人御詰合に御座候其節、家数八百軒余、外御役所有之諸願書並、吹金書 上帳など別帳有之同十二年より鋪口へ水風呂相建日日わらじを洗ひ候ても二三拾匁 づつ取申候」
 
 という次第であるが、先に2〜30匁の金とはどれくらいになるかと計算してみた が、「開立年限附」なる文書では、月1,000両の礼金を出したというので、それでは どれくらい掘っていただろうかと考えてみた。12月11日より晦日まで2貫546匁(3分 1厘は切捨てとして)出したと書いてある。1ケ月ではと計算してみた。2,546匁÷ 2(20日)×3(30日)=3,819匁、そこで ×3.75g=9,547.g、×1,200円=1145万 6400円となる。1両は4.4匁として ×3.75g=16.5g、×1,000両=16.5K、×1,200円 =1,980万円、となれば、掘った金の代価は1145万6千円で、これでは仕事にならない、 ということで3ケ月1,000両というから、1ケ月333両ということで計算してみると、 549万4500円となるから、これだと半分は儲けとなる。沢出家文書の方は3ケ月3,000 両と書いてあるが、金の産出高を書いていないので、どういうことになるか見当が つかない。
 
 といってみたところで、当時と今とでは物価も違うだろうし、比較にはならない と思うが。そんなことは止めにして、長坂の下の沢に行って、泥をかましたら、砂 金がザクザクと出てくるかもしれない。といっても昔の人がとうにやっているだろ うが。

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