下タ沢会によせて(覚書)

長坂千軒崎千軒

 この沢出家文書に、家数八百軒余、と書いてあるところから、長坂千軒崎千軒と いったと言い伝えが出てきたのかもしれない。ただ千軒というのは、実さいに千軒 あったということではなく、非常に多いということの代名詞で、家がいっぱいあっ て、人がいっぱい働いていて、非常に栄えたところだ、ということだと思うが。
 麓さんが書いている、小屋数百五六十軒、というのは明治の頃の元山の戸数を考 えれば妥当なところかもしれない。

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