学校の話しが元山の火事になって、焼けたお寺の話しになってしまったが、焼け
たといえば、そのお寺よりはるかに古い、寺岡さんが国宝級の彫刻も額もあった、
という山神社も焼けてしまったわけですが、その山神社はいつ頃建てられたのだろ
うか。 このことについては確たる資料もないようだが、慶長年間に北(南部)重左衛門 が創建したと伝へられている。 尾去沢鉱山の発見(西道、五十枚など)は慶長4年(1599)といわれているの で、そのときすでに神社をつくったかはわからないとしても、昔の人は信心心が篤 いので、少くとも翌年にはちゃんとした神社をつくり、鉱山の繁栄と安全を祈願し たのではないだろうか(山子が山神さんを祀ってから仕事にかかったように)。 その後どういう経過をたどったかはわからないが、それからおよそ100年後の正徳 6年(1716)藩主南部公によって再建されたという。この南部公の再建した神社が大 正14年(1925)に焼けた神社かもしれない。 この山神社は、山のどの辺にあったか私にはわからないが、部落の上の方、高い 所にあったと思われる。明治時代の所番地は(明治22年町村合併により、尾去、尾 去沢鉱山、三ツ矢沢が合併して尾去沢村となった以後と思われる。)、「鹿角郡尾 去沢村尾去沢鉱山字元山241番地」となっている。 この神社に、明治の末頃近在の神社が合祀されている。それは、時の政府が明治 39年(日露戦争が終った翌年)4月、府市県町村の府県郷社に対する神饌幣帛料を認 め、神社合祀を奨励した。つまり全国の無格社のうちには、神社の体裁をなさず、 神職がいないばかりか、祭祀も行われず、神社崇敬の念を失なわせるものが多かっ た。というわけで、各府県は明治41〜2年(19081〜9)に盛んにこの合祀を実行した という。 秋田県では一足おそかったのかわからないが、尾去沢では明治44年に次のように 合併している。 明治44年4月:○上新田の稲荷神社、○中新田の平野神社、○下新田の稲荷神社、 ○獅子沢の神明社、○同大盛神社、○笹小屋の稲荷神社 同年8月:○田郡の山神社、9月:○赤沢の山神社 以上八社が合祀していたが、後に(大正15年7月)鉱山の神社であった両社神社 を合祀しているので、九社の合祀となる。 したがって、お祀りしている神様も、 ○大山祇命(おおやまずみのみこと) ○金山彦命(かなやまひこのみこと) ○豊受姫命(とようけひめのみこと) ○天之鈿女命(あめのうずめのみこと、天児屋根命?) ○天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) ○猿田彦命(さるたひこのみこと) ○埴山姫命(はにやまひめのみこと) ○稲倉魂命(うかのみたまのみこと) 以上八柱の神様となる。 今、鉱山の両社神社を合祀したといいましたが、尾去沢鉱山には、この元山山神 社とは別にもう一つ「両社神社」というのがあり、この神社は金山彦命、埴山姫命 を祭神として盛岡城内に古くから祀られ、南部公ご崇敬の厚かった神社といわれて いるが、文化8年(1811)南部藩第36代藩主利敬公が尾去沢鉱山はじめ鹿角の鎮守と して、藩の宝庫である尾去沢鉱山にご勧請になり、以来鉱山の守護神として祀られ てきたもの、といわれている。 元山の山神社が大正14年の火災で焼けた翌15年7月、関係者が話し合って、この 両社神社(無格社)を元山の村社山神社に合祀することとし(順序が逆のようです が)、その旨届出て、同年10月認可されている。 その後昭和7年8月、南部公ご崇敬の神社である「両社」の尊号を永久に残したい (元山の山神社に合祀した時点で、両社神社という神社名はなくなっていたと思わ れる)ということで、神社名を「両社山神社」と改称することを願い出で、同年10 月認可され、続いて郷社昇格の申請がなされ、昭和20年1月郷社に昇格しているとい う(申請書類などはなくなっているので、昭和7年に申請して20年まで13年もかかっ たのかわからない。戦後いちはやく軍や神社関係の書類は処分されたのではないだ ろうか。)。 |