下タ沢会によせて(覚書)

黄色い軍服 − 紺から黄色へ −

 明治37年(1904)といえば日露戦争の始まった年であるが、日本は明治維新 (1868〜)以来、西欧に追いつけ追いこせで、明治16年には鹿鳴館をつくり、日夜 オエライさんやその家族などが、ドンチャン踊り狂い、日清、日露の戦役では勝っ た勝ったということで、いよいよ列強の仲間入りと勢いづき、明治43年(1910)に は韓国を併合して軍国主義へと突き進んで行く、その行きつく果は、昭和20年 (1945)の敗戦だった。考えてみたらこの37年に日本の前途に黄信号がともってい た。それを貴信号と気づかずにそれ行けドンドンと進軍ラッパにしてしまった。そ の黄信号とは、陸軍の軍服をそれまでの紺からカーキ色に変えてしまったことであ る。カーキ色=黄色=黄信号。これは今にして思えば、という私のこじつけだが、 しかしこの年、ご存知のように与謝野晶子が旅順攻撃に加っていた弟を思って、 「君死にたまふこと勿れ」という詩を発表して、大きな反響を呼び、非国民という 非難も受けたようだが、その頃はテレビもラジオ(大正14年3月1日、社団法人東京 放送局(のちのNHK)が試験放送開始)もない時代だ。新聞は大分普及していたろう とは思われるが、とはいえその頃はまだ郵送の時代で、花輪ではじめて各戸配達と いう形で入ったのは、明治38年9月といわれ、少数の知識人や物知り連のものであ ったろうといわれている。尾去沢ではおそらく鉱山上層部の人達は呼んでいたろう が、元山や下タ沢の人達はどうだったろうか。この詩は雑誌「明星」に発表された というが、当時どの程度、どのようにして、いわゆる民間に情報が伝わっていたろ うか。それでもまだ、そういう詩を発表できる世の中の空気が残っていたろうが、 私達の時代になると、天皇陛下の「テ」という言葉が出ると、今まで「休め」と伸 ばしていた足をさっと引いて、「気をつけ」の姿勢をとるという時代になった。

 明治維新から終戦までおよそ77年、明治37〜8年はいわばその中間点、マラソン でいえば折り返し点、勢いよく上りを走っていたと思っていたのが、実は下り坂、 勢いがついていただけ止れなくなっていた、ということか(……)。

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