また無駄話しが長くなってしまったが、その頃元山に136人(戸)も住んでいたろ
うか。それから21年後の大正14年の大火のときは43戸、およそ3分の1に減っている、
と思ったが、在住ということは、住んでいたということだから、それでいいとして、
ただよその部落に出て行ったけれども、昔ながらの部落づき合いをしていた人もい
たかもしれない。この名簿の中には私達の親達の名前もあるので、皆さんも名前を
拾い出してみると、その辺のことはわかるかもしれない。ただ私が先に、わずか20
年の間に3分の1にも減ったと思ったのは、盛衰の激しい鉱山としては有り得ること
かナ、と思ったが、それにしてもと中村昭吉さん(昭和19年尾去沢入社、元尾去沢
鉱(株)取締役、(株)尾去沢鉱山観光専務取締役)の書いた「鉱山(カナヤマ)
に心ありて − 20世紀における尾去沢鉱山 − 」によると、明治44年の従業員数
(係員を含む)1,526名、大正15年同じく1,866名となっており、明治の末より300人
程ふえているので、元山の戸数減ということは、その後(明治37年以降)逐次カゲ
(本町)の方に移り住んだ人が多かった、ということだろうと思う。
私達が子供の頃、元山には学校も警察もあった。熊谷鋪のあたりには鉱山事務所 や採鉱課長宅などいろいろあったと聞いたような気もするが、私より10くらい年上、 今90になるくらいの人達には、記憶にあるのではないだろうか。 また鉢巻山の麓に人夫飯場一棟あり、というのは元山側のことだろうか、また下 タ沢に渡り坑夫飯場一棟あり、というが私達は全然知らない。ただ明治42年に元山 から田郡に学校を新築移転したときに、下タ沢飯場佐々木音吉より五十銭の寄付が あったというから、明治の末から大正頃まではあったのかもしれない。また長屋の 記憶もないが、学校に行く頃(昭和4年〜)になって、寺岡さんの屋敷跡の上みの方 に、長屋跡とかいって半分沈殿小屋(休けい所)に使っていた記憶がある。 |