下タ沢会によせて(覚書)

海から上った銅板

 こんなことを書いているうちに、麓さんの本の「大坂廻銅」の項の一番最後の方 に、面白い記事をみつけた。それは、
 「昭和30年7月29日付毎日新聞秋田版の報ずるところによると、青森県西津軽郡深 浦町海岸の久六島とよばれる岩礁附近で、同町の潜水夫が鮑採りをしているうちに、 約30米の海底から長さ2尺幅1尺5寸厚さ3寸、重さ約8貫目の銅板2枚を拾い上げたと いう。同支局は文政4年に尾去沢銅を積んだ船が沈没した際のものとしている。如何 なる史料による断定かわからないが、こゝに附記しておく。」という次第だ。

 文政4年(1821)といえば、伊能忠敬の遺志を継いだ弟子達の手によって、「大日 本沿海與地全図」及び「大日本沿海実測図」が完成し、7月10日幕府に献上された年 で、忠敬は3年前に死んでおり、その死はこの地図が完成されるまで内密にされてい たという。私がこの話し(下書き)を書いていたのが7月10日で、これも何かり縁か ナーと思ったが、何んの縁でもないことだけは確かだ。たゞこの3月菅江真澄が土深 井から十文字を通って尾去沢に入ってきて、「追子坂」の話しを書き、「時はいま 咲くや花輪の花かすみ……」と米代川を舟で渡って、花輪の方へ行った年である。
 それはそれでいゝとして、問題は8貫目の銅板枚だ。2枚16貫となるから、能代送 りの1箇ということになる。船の沈んだのが、深浦と考えれば、野辺地まわりの船と も考えられるが、野辺地行きは1箇約13貫目だから、1枚は6貫目強。能代を出た船が 「しけ」のため、北へ流されて沈んだ(のか、荷物を捨てたのか)と考えれば、1枚 8貫目でいゝわけだから、そんなこともあったかもしれない。

 ところで牛の背中につけられた銅の大きさだが、麓さんの本には重さは欠いてあ るが、大きさはない。この引きあげられた銅板は長さ2尺、幅1尺5寸というから、厚 さはともかくとして、これなら牛の背中に丁度よいだろうと、妙に納得したような 気分だ。
 今マインランドの鉱山歴史館に筵包みされていて鞍につけられた荷物があるが、 中身は見えないが上からはかってみたら、約2.1尺×1.3尺×0.3尺あった。たぶん銅 板の模型かもしれない。

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