下タ沢会によせて(覚書)

シベリア行き − 冬の伐採作業 −

 話しはとぶが、私の戦後のシベリア暮らしは、松の木の伐採作業から始った。  奉天(今の瀋陽)で終戦になり、その近くの(といっても3〜40Kもはなれていた ろうか)文官屯(張学良の作った東北大学のあった所とか、そういえば学校のよう な大きい建物があった)というところに集結させられて、11月になってからそこを 出発して、ハルピンを通ってソ満国境の満州里(まんちゅうり。今もそういってい るだろうか)を越えたのが12月1日。その後シベリアを何か所も移動したが、いつど こへ行ってあったか、皆んな忘れてしまったが、その日だけはおぼえている。その 頃はまだ、満洲といっても日本の息のかゝった土地、いよいよシベリア、これから 先どうなるかわからない、という思いでその日を心にとめてあったのかもしれない。 シベリアの原野?を汽車といっても兵隊輸送用に改造された貨車だったが、何日か 走って着いた先はイルクーツクの町外れだった。そこで1ケ月くらい暮らして、そこ から40Kくらい東にもどって着いたところがポタルウイハという山の中の小さい駅、 この辺でいえば土深井駅といって感じ、そこから夜道を7〜8K歩かされて(下新田か ら入って、下タ沢に行くような感じだった)着いたところは、何にもない山の斜面 の雪をかきよせて、14〜5人入るテントが何張りかボツンとたっていて、中の土間に は煙突もつけない小さい四角い薪ストーブが一つほおり込んであるだけだった。真 冬のシベリア(1月18日だったと思う)、そこからノルマ(1人2リュベ(立方メート ル)といわれた)に追われて、一日中腹へったーの伐採作業が始まる。後にポタル ウイハの地獄伐採といわれ、働きの悪い者はポタルウイハの地獄伐採にやる、とい われて恐れられたという。私達はその第一陣、山開き、開拓者、いろいろ考えてみ たが大して自慢になることでも名誉になることでもなかった。

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