以上元山関係13ケ所について書いたが、狸掘りといわれた時代は別にして(今マ
インランドの観光坑道の出口近くになって「慶長の道」とか「ちょん曲げ坑道」と
かいって、腹ばいになってやっとという坑道を見ることが出来る)、やっぱり昔の
坑道はせまかったと思う。おゝむね1700年代の後半と思うが、せいぜい5尺×3尺く
らいが大部分である。が、このうち新切鋪が8尺×6尺、熊谷鋪が7尺×5尺で、三沢
のうちでも一番大きい方だと思う。この新切鋪は、下タ沢から行って元山と田郡と
分れる手前(橋を渡る)にあって、道路より少し斜めに下りて行って、私達が夏な
どに涼んだシンギリといったところだろうか。附図1を見ると、下タ沢から元山に向
って行くと、この鋪だけが右側にある。これを入って行けば、万才の立坑の下に出
るとかいわれたような気がするが、行ったことはない。たゞこの附図を見ると、新
切鋪はなく、新鋪と欠いているが、これはこの図面を写した人が「切」の字を書き
落したのではないかと、勝手に思っている。 また熊谷鋪もよくわからないが、元山沢の入口附近で田郡のお寺(観音庵)の崖 下に大きい坑口が開いていたと思うが、そこを熊谷といったと思う。鉱山史によれ ば、幕府の巡見使とか藩主等の廻山には、この鋪口に入ったというから、尾去沢を 代表する鋪の一つであったと思う。 請負稼行時代熊谷治兵衛という人が請負をしていたので、この熊谷鋪はその人が 開坑させたとか、何にか関係があると思ったが、熊谷治兵衛が請負していたのは、 元禄元年(1696)頃までのようであり、熊谷鋪の開口は宝永七年(1710)なので、 つながらなかった。 こうした鋪の中で、大切といわれた水貫坑は一段と大きく、勢沢水貫大剪鋪も、 田郡の水貫大剪鋪も、赤沢の新口水貫大剪鋪も、共にそのかせは8尺×6尺である。 |