陸大卒の陸軍中将。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 陸大卒の陸軍中将 − 石川漣平は明治十二年二月二十一日石川儀平の五男として毛馬内に生まれた。 長兄は伍一、毛馬内小学校卒業後は、軍人を志し、幼年学校、仕官学校、砲工学校、要塞砲兵射撃学校を経て、 明治四十二年十二月陸軍大学校を卒業した。 佐官になってからは、母校の砲工学校や射撃学校の教官や第十三師団参謀長をつとめ、大正十三年陸軍少将のときは、 野戦重砲兵第四旅団長となり、昭和四年陸軍中将として陸軍重砲兵学校長や、砲工学校長に任ぜられた。 当時本県ではただ一人の現役将官であった。もし薩長出身者であったら当然大将だろうと噂された。 昭和六年八月予備役に編入されたが、その翌年から北白川宮家の別当として十年間勤務した。 晩年は長兄石川伍一の遺稿の整理や資料の収集につとめ、昭和十八年十二月「東亞の先覚、石川伍一と其の遺稿」 を出版した。この出版に当っては、秋田県教育会長の豊口鋭太郎や東京の人文閣堀川豊永(現在の豊弘)らの 格段の協力があった。 現役中はあまり帰郷の機会がなかったが、退職後はよく墓参のため帰られた。まず仁叟寺の先祖の墓参をしてから、 古町の恩師上関富治を訪うて敬意を表し、また同級生の本田鋭之助をたずねてから、母校の毛馬内校を訪問された。 時にはお話をして児童を激励されたものだ。また育英に関心をもたれて、石川賞を設けて高等科の卒業生の男女各一名に 銀時計を贈られて感謝された。時には書籍を寄贈されることもあった。徳富蘇峰の「日本国民史」や比田井天来の 「昭和法帳」など現在も同校に大切に保存されている。 訪問の最後は本家の豊口弁司の処にくつろぐのを楽しみにしていた。その堂々たる風格と義理人情に徹された武人の 典型として世人を感動させたものだ。昭和二十一年三月六日病のため逝去された。
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