GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

石垣柯山

 花輪長福寺で漢学塾を開き、多くの若き鹿角人を育成した。

参考(出典):「鹿角市史」
 
 明治五年十月の花輪郷学校廃校の通達後、花輪長福寺において漢学塾を開き、多くの 人材を育成した。
 柯山は文政十一年(1828)沼田順六檪斉の第三子として、大館に生れた。後大館の 郷校博文書院の教授石垣成美の養子となり、秋田明徳館に学び、黒沢四恕に師事した。 帰郷後養父のあとを継ぎ博文書院の教授方を務め、毛馬内の泉沢氏、内藤氏とも親交 があった。維新動乱の後函館へ赴き、生業の傍ら儒学による人倫の道を教え、官から 賞詞を受けたが、事業が不振で大館へ帰ってきた。
 
 その後、花輪郷学校の廃校後、学校主簿大里寿はその学才を惜しみ、花輪盆坂の自宅 に柯山に漢学塾を開かせた。柯山の学殖を慕う入門者が多く、大里邸では収容しきれ なくなり、後に塾を長福寺へ移した。
 柯山は同七年、尾去沢又新(ゆうしん)学校の初代校長大森武七の招きに応じ、 高学年に四書を講じた。又新学校の生徒であった内藤湖南は「追想雑録」の中で、 柯山の指導を受け、本を借覧したと述べ、後の司法大臣川村竹治は「亜州絶句」の 序文に、「稍長じて石垣柯山先生の門に学ぶ」と記しており、その学識は鹿角の 青少年に少なからざる影響を及ぼした。
 
 昭和九年、旧門人達によって秋田市楢山の弘願院に顕彰碑が建てられ、除幕式 には川村竹治も出席した。門人として碑文に名を連ねた鹿角人は、川村竹治、 内藤虎次郎(湖南)、大里武八郎、関善次郎、吉田継道、中嶋太郎、川口文哉、 村山喜四郎である。

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