鹿角の近代人物伝
 
…… 地域産業の育成に尽力した ……
△関善次郎   明治五年(1872)〜昭和十二年(1937)
  関善次郎 は明治五年四月十三日、二代善次郎の長男として花輪六日町に生まれた。幼 名を徳次郎といい、温厚篤実で滅多に友人と争うことのない、おとなしい少年だった。
 しかし、内に闘志を秘め、若いころから将来有為の実業人と嘱望されていた。三代善 次郎を襲名したのは、大正十五年六月である。
 
 花輪小学校を優秀な成績で卒業したが、上級学校に進むこともなく、長福寺に開かれ ていた石垣柯山の漢学塾に入門した。柯山は大館に生まれ、東北では有数の儒学者であ り、漢詩人でもある。その塾は明治五年から十七年まで続き、多くの人材を育成し、善 次郎はその最後の門人であった。
 
 善次郎は大正八年、第十代花輪町長となり、地方自治確立に貢献した。(秋田)県内 有数の醸造店を経営し、鹿角酒造組合会長、秋田銘醸の役員として業界発展に尽力して いる。
 昭和二年、推されて県議会議員となったが、党利党略にかかわりのない中正な議員と して、県政界に重きをなした。
 
 晩年、善次郎は恩師の顕彰を決意し、鹿角北秋の同門の士に呼びかけて、同九年八月 、秋田市牛島の弘願院に顕彰碑を建立した。鹿角人では川村竹治、内藤虎次郎、大里武 八郎、関善次郎、吉田継道、中島太郎、川口文弥、村山喜四郎の名が刻まれている。題 字は川村竹治の雄筆な書で、裏面の碑文は善次郎の書である。端正流麗な見事な書で、善次郎 の漢文調の文と共に、教養の深さをしのばせている。
 
 善次郎は、現在の鹿角組合総合病院の前身である、鹿角医療購買利用組合理事長や花 輪実業会会長など多くの公職を誠実に果たし、十数万の負債で破産に瀕していた中通耕 地整理組合の組合長を委嘱された時も、採算を度外視し、再生させたことは特筆すべき であろう。
 同十二年五月六十六歳の若さで、多くの人々に惜しまれながら病没している。
関善主屋
写真提供:NPO法人「関善賑わい屋敷」

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