石川一族の総領(石川伍一等の厳父)。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 社会有用の一族 − 石川儀平は、毛馬内の素封家豊口伝の分家となった石川貢の長男として、天保十三年七月十日に生まれた。 青年の頃盛岡に出て南部藩の家老東次郎に仕え文武の道を修めた。明治維新の後、東が外交官として支那その他に 赴任するや、これに従って外遊すること数年に及び、大いに知見を広めた。一時帰郷して毛馬内戸長となった。 明治二十五年家をあげて東京に移住して専ら子女の教養に努めつつ、一方では東と協同して貿易の事業などに手を 染めたが、失敗して家産を傾けた。しかし儀平は常に経倫の志があり、子孫もまたその意向を継ぎ、一門には 社会有用の材を輩出した。すなわち長男伍一は、大志を抱いて支那に渡り、重要任務を遂行したが捕われて国難に殉じた。 次男寿次郎は海軍中佐、四男祐助は国学院及び高師を出て秋田中学の教頭となった時期もある。 祐助の三男達三は作家として有名である。儀平の五男漣平は、陸軍中将でその当時本県では唯一人の将官であった。 六男六郎は朝日新聞学芸部長として令名があった。また長女ミキには書家種市霊山、海軍少佐種市喜六の兄弟があり、 二女やす子は田村定四郎夫人である。 儀平は大正五年四月三十日病のため東京において没した。享年七十歳。伍一の眠る麻布光林寺に葬られた。 △系図@ 本家豊口伝(つとう) ↓ 豊口文平 → 順蔵 → 弁司(書家) 石川貢(分家) → 儀平Aへ 石川和助(分家) − 権吉 → 正治(元七滝村長) △系図A 石川儀平(南部藩祐筆、毛馬内戸長) ↓ ミキ → 種市直三(倫理学者・書家)、種市喜六(海軍少佐) 伍一(海軍編集書記・軍事探偵、志士 日清戦死) 壽次郎(海軍中佐、日露戦争戦死) → 寿子(児玉高慶夫人・杖術錬士) 祐助 → 晋(陸軍大佐)、悌次郎(東亜同文書院卒、同窓会長)、石川達三(作家、第一回芥川賞) 漣平(陸軍中将) → 悌男 六郎(国民新聞編集局長・朝日新聞学芸部長) やす子 − 夫君は田村定四郎(会社重役)
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