鹿友会誌(抄) 「第十九冊」 |
△亡友追悼録 ○石川儀平翁 本会賛成員にして、最も古く東京に移住したる同郷先輩の一人なる石川儀平翁は、中 風症に罹られ、病床に親しまるゝこと多年に及ばれたるが、療養の効なく大正五年四月三 十日市外下渋谷の自宅に永眠せらる。享年七十歳、一族の人々の心尽しは固よりなるが 、故壽次郎中佐未亡人ゆう子刀自は、十余年間一日の如く翁の病床に侍し、赤心こめ て看護に務められしと聞く、葬儀は同五月四日午前麻布区富士見町光林寺に於て営まれ たるが、知名の士の会葬頗る多く、本会より川村竹治、青山芳得両氏以下本会員十余名 参列し、川村幹事長は特に本会を代表して、霊前に左の弔辞を朗読したり。 弔辞 同郷の先輩にして、本会賛成員たる石川儀平君の逝去に対し謹んで深厚なる弔意を表 す 大正五年五月四日 鹿友会幹事長 正五位勲三等 川村竹治 ▲経歴 翁は毛馬内の素封家石川貢氏の男、青年の頃早く盛岡に出て、南部家の家老東 次郎に仕へ、長く同地に止まりて文武の道を修む。明治維新の後、東氏が出でゝ外交官 として支那其他に赴任さるゝや、翁も亦随ひて外遊すること数年、 明治三十三年家を挙げて郷里毛馬内を引き払ひ、東京に移住して、専ら子女の教養に 努め、又東氏と協力して各種の事業に手を染めらる。是が為に家産の大部分を竭すに至 れるも、能く子女の教育輔導に心を傾けられたる効空しからず、秀才、一門より相継い で出づ。長男伍一氏は夙に大志を抱いて支那に入り、重大の任務を帯びて国事に奔走さ れたるが、明治二十七八年日清戦役に際し敵人の凶刃に斃る。次男壽次郎氏は身を海軍 に立て、日露戦役に従ひて殊勲あり、官は中佐に進み、軍艦厳島副長として凱旋したる 後、前途多望の身を以て一朝奇禍に罹りて逝かる、三男祐助氏は國學院及高等師範学校 を出で、岡山県立高梁中学校教諭として高風あり。四男漣平氏は現に陸軍砲兵中佐とし て、重砲兵射撃学校教官兼教導大隊長、五男六郎氏は国民新聞記者として何れも令名あ り。又長女みき子は毛馬内種市三平氏に嫁ぎ、二女やす子は本会会員田村定四郎夫人た り。 翁、資性温厚篤実、他に信を置くこと厚く、晩年病を得て後は、府下玉川、大井等に 隠棲して専ら静養に努められたり。 ○石川軍治君 君は会員石川正治君の令弟にして、毛馬内小学校、大舘中学校を経て、 早稲田実業学校に学び、今春業を卒へて、幾ばくもなく不幸病魔の襲ふ所となり、地を 更へて療養中、病革り本年六月迄に姫路赤十字病院に於て逝去さる、君、性卒直にして 前途有望の好青年なりしが、惜しむ可しとも惜しむ可し。 |