鹿友会誌(抄)
「第十九冊」
 
△亡友追悼録
○本田伊三治君 小坂の老国手として全郡医界に重きをなし、本会の元老として始終変 ることなき誠意を寄せられしが、昨年病を以て逝かる、哀悼に堪ふべけんや、君の性行 と閲歴とは 左に掲ぐる齋藤小坂山長の弔詞により窺ふ可し。
 
  祭文
 維時大正五年八月十五日、小坂町会議員兼小坂小学校々医本田伊三治氏は、東京に於 て不帰の客となれり、享年五十有三、
 君夙とに泰西の医術進歩せるを洞見し、明治十六年五月東京大学医学部別課医学科に 入り、同二十年十二月医学全科を卒業、錦を著て郷里に帰り、明治二十二年より同二十 四年末まで、藤田組小坂鉱山医員となりて、多年の蘊蓄を実施して着々功績を奏し、同 二十五年乃至三十年小坂村に在りて医術開業に結据し、隠然斯界の重鎮を以て目せらる 、同年十月再び藤田組に入り、漸次累進、遂に小坂鉱山医院副院長の重任を荷ふに至り 、上下の信頼頗る厚きを致せり、
 
 明治三十八年藤田組を辞せし以降は更に独立病院を起し、傍ら小坂小学校々医を兼て 、仁術を施すに懇切を極め、尚加ふるに町会議員の名誉職に就き、町是を籌るに熱意を 込むるを常とせしを以て、君が徳望は益々揚るあるの勢ありしに、不幸二豎の襲ふ所と なり、溘然として長逝せらる、嗚呼小坂の誇りとせる一名花を失へり、君の一家は家の 宝を失へり、吾曹町会議員たるもの君を憶ふて転た断腸の思ひに堪へず、茲に粛んで霊 前に九拝し、哀悼の忱を表す
  大正五年八月二十一日
     小坂町会議員総代 齋藤精一

[次へ進んで下さい]