[鹿角の時は流れ行く]
81 領界紛争
 
         参考:武内印刷出版部発行「佐竹物語」
 
〈はじめに〉
 南部・秋田両藩の境界(領界)紛争の行方によっては、そ
れは鹿角の経済を大きく左右し、またその土地の住民や事案
処理に関わる人々の存亡をも決定されたのでした。
 紛争を誘引するのは、「金」と「スギ材」でした。
 本稿は、長岐喜代次著武内印刷出版部発行「佐竹物語」を
参考(一部抜粋)にさせていただきました。
 「秋田藩の目」から、この境界紛争について見てみたいと
思います。SYSOP
 
〈秋田と南部の境界争い〉
 慶長七年(1602)九月佐竹儀宣が、秋田へ入部したが、大
勢の家臣を養うためには、土地の生産高を確実に把握し、不
明瞭な藩境をただす必要があった。
 この当時、比内ヒナイ(大館市・比内町)・鹿角(鹿角市)の
産金地帯は、古来から秋田安東氏・比内浅利氏・南部氏がし
ばしば抗争を繰り返した地で、その帰属も幾度か変わったこ
とがあり、従って境界のはっきりしないところが多かった。
 加えてこの地は、慶長三年(1598)に北十佐エ門が白根金
山(現在の毛馬内西側小真木鉱山周辺らしい)を発見以来、
同四年比内の大葛金山と峯境の槙山金山、五十枚金山、同七
年西道金山(現尾去沢)など、続々と有力な金山が発見され、
華々しく開発され始めた時であった。
 
 まず、金山を巡っての領界争いが秋田と南部両藩の間に起
こった。
 論争の要点は大体二点であって、南方は秋田領十二所と南
部領花輪の領界、北方は秋田領大館と南部領毛馬内の領界で
あった。
 南方においては、秋田側は、南部の西道金山は自領の沼山
金山の続きであると云い、また南部側は、秋田の大葛金山が
自領であると主張した。
 北方においては、南部側は米代川の北方秋田の大森、下ノ
森、楢木鴬沢山、神林、長木峯、清水ケ峠などを自領と云い、
秋田側は南部のけさ掛沢、小坂村、新畑等を自領であると主
張した。
 また、小坂方面から青森県境にかけては、秋田杉におおわ
れた森林地帯であるため、浅利・南部・秋田氏の抗争時代にも、
豊臣秀吉の要請による杉材を伐採していたので、その当時の
勢力によって、境界が変化していたような様相が見られる。
 
 ここで、長木沢における材木紛争の状況を、秋田県庁所蔵
の古文書(関係部分要約)によって見てみよう。
 「秋田県庁所蔵の古文書」表示
 
 次に、鹿角市の記録によって、慶長年間における境界紛争
を概観しよう。
 浅井小魚の収録した「秋田南部国境争論一束」を見てみよ
う。
 「秋田南部国境争論一束」表示
 
 以上のように、沼山金山を巡ってその大事件が起こってい
る。右を要約すると、
「鹿角の沼山を今は西道(現在の尾去沢)と云っているが、
この金山は慶長十二年ころ発見された。
 同十三年南部の金掘り共が嶺を越えて、比内沼山へ行き金
を掘ったので、秋田側から渋江内膳・南部側から桜庭・内堀の
両家老が出向いて沼山の境界論争をした。
 南部側は、この地は南部信濃守が、徳川家康公から拝領し
たものであるのだと主張したのに対し、佐竹家老渋江内膳は、
鹿角沼山は拝領したかもしれないが、比内沼山は義宣公が拝
領したものである、と言って一歩も譲らなかった。
 そこで、慶長十五年(1610)両方の家老が江戸へ上り、老
中本田佐渡守へ訴えた。
 その時、佐渡守は「家康公の御機嫌を伺ってから言上する
ので、御裁許があるまでは、論地へ一切手をつけてはならな
い、と申し渡した。
 このような争いが、藩界のところどころに起きたが、何故
か幕府は裁定に躊躇していたので、両藩の間には紛争が絶え
なかった。
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