「秋田南部国境争論一束」
 
「鹿角沼山は今程は西道と申候、彼の金山は慶長十二年前後に出
来仕候、同十三年の末つ方より比内沼山へ嶺を越え、南部より金
を掘り申候に付て、秋田家老の者に其儀申し聞かせば、同十四年
古内膳(佐竹家老渋江内膳政光)境目へ罷り出られ候、南部より
桜庭安房守・内堀伊豆守罷り出られ、比内沼山御論致され候、南
部より検使の衆申され候は、権現様(徳川家康)より信濃守(南
部公)拝領致され候と申さるるに付て、古内膳申すには、鹿角沼
山御拝領にもこれ有るべく候、比内沼山に義宣ヨシノブ(佐竹公)
拝領の地に御座候、兎角は金を堀らせおかれ間敷候、江戸へ言上
仕るべく候、其の元よりは言上なさるべく候由御取くみにて、同
十五年には古内膳江戸へ登られ、本田佐渡守様への右の段に御訴
訟申され候に付、佐州様御意には御機嫌を以て言上仕るべく候、
其内論地境目への両方より手入仕間敷、南部へも秋田へも堅く仰
付けられ候(後略)」
 
鹿角の時は流れ行く
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