GLN[ファウストのこと]

おわりに

・何故人は、自分のした行為に対して、大神にその許しを請う必要があるの であろうか。
 純真無垢の姿で、この世に生まれ出た”人”が、何故?
 
 実は、其処(大神の示す教義教典の内容)に、何か齟齬をきたしている 部分があるのではないだろうか。そうでないと願いたいのであるが……。
 
 この”許し”とは、実は、人が大神に対して、その部分(同じく教義教典の内容) を修正して欲しいと云う願望なのではないだろうか。 このことは、日本仏教の場合にも云えそうであるが……。
 
 あるいはまた、人は本質的に、それぞれが優秀な頭脳を有しているが故に、 ”既存の教義教典”に対して、敢えてそれに対抗しようとする性質 を持っているのかも知れない。
 
・このように考えてくると、教義教典は、有名無実なものなのだろうか……。 しかしながら、”神(神仏とも)の存在”は否定されるべきものでないと……。
 
 更に、このように、自らを振り返りつつ考えてみると、宗教と云うか、 神と云うか、それは人自らを救済してくれるものではなく、つまり絶対他力的な ものではなく、絶対自力でなければ、根本的には解決され得ない問題なのでは ないだろうか。
 
・神の存在意義とは、それは、人は自らを律するために、自分よりもより崇高な 存在 − いわゆる超能力を有しているもの − として信ずること なのであろうか……。 一神教を旨とする聖書の宗教においては、大神と人とは、絶対的に、完全に分離 (交流を拒否)することを前提として成立しており、 そのことにより、大神は、より”強力な存在(として君臨)”として 信じられているようである。
 
 しかしながら、地球上の全ての人間社会が、現今のように成熟してくると、 ”救済”とは、一個人の問題でもなく、宗教宗派の問題でもなく、人間全体の 問題として捉えられるべきであろうと考えられる。
 
 と云うことは、人類共通の課題として、
@物質的な救済 − 生存権 − については、我々みんなの英知を結集して その需要供給の調整を期することとなろう。
A社会的な救済 − 自由とか平等とか − は、好ましい道徳律たる、 思想哲学を構築することによって、達成可能となろう。
B精神的な救済 − 生きがい、つまり満足感幸福感の追究 − は、 それは個々人の、自分自身の心の中の問題、 即ち「自らが神になり得る」と信ずることによって成就されるであろう。 この場合、自らの精神を律するものとして、個々人それぞれが 「常々自らの心を清浄にしておくこと = 正義感」が前提となろう。
 
※参照:「神道とは3」

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