[詳細探訪]
〈大湯環状列石の解明〉
以上の地点毎の配石や建物の遺構には、大局的に時期変遷があることが判明した来た。
建物では亀甲形から方形へ、方形から円形へ移り変わったと捉えられる。とすれば配石
墓や土壙墓も、万座環状列石周辺では二重円環を構成するものから、外部の円形建物周
辺に散在するものへ移って行ったことになるであろう。更に地区を異にした遺構の変遷
では、一本木後ロ地区や旧営林署跡地の方が、2基の大円環より大局的に先行するとの
調査報告もあり、地区別の大変遷と円環周辺での変遷が見通されて来ていることになる。
この複雑な変遷の他に、更に重要な発見が付け加えられた。万座環状列石の西北方の
台地縁辺部は、台地下に湧水地点があり、その上の台地肩部に少数の竪穴住居趾も見ら
れる生活条件の良い所であった。此処に、もう一つの円環構造の遺構群が発見された。
これは万座より小振りな円環で、外径50m程の亀甲形建物の輪の内に、径30mの環状の縁
石とみられる配石の残存が所々に見られる。万座の亀甲形と同様な建物9基が明瞭な円
形をなす内に、一部に4本柱の建物も重なっている。更に内外に炉趾や柄鏡状建物の入
口部や外縁とみられる石の残存、その建物の柱穴などが重なっている。ある調査概報で
は楕円形の立柱列やそれを含む配石を想定しているが、万座周辺の変遷や亀甲形建物の
円環配置とを重ねてみると、此処には亀甲形の建物に囲まれた空間と、それを区切る縁
石がまず最初にあって、後に円形建物や土壙墓が拡大して来たと考察出来る。この湧水
の上の遺構群のうち、亀甲形の建物期は野中堂や万座の地区より大局的に先行すると捉
えられており、先程の一本木後ロ地区などとほぼ同じ頃とされている。以上のことから
大湯環状列石遺跡の広がりは、東西400m、南北600mに及ぶものの、時期的な変遷がある
こととなる。また通常の竪穴住居が殆ど営まれていないと云う特色も浮かび上がって来
た。縄文時代後期の前葉期に、当初は小高い所に袋状貯蔵穴群などが点々と営まれる所
であったものが、その台地が選定されて、湧水のある台地上縁に円環状に亀甲形の建物
などが営まれ、内部に空間地が維持された。この頃に、微地形の谷地を挟んでやや遠方
に、配石墓群や列石状配石に分けられた配石墓群が200〜300mも隔てて営まれる。配石墓
には、幾つかの形態差のある類型が既に含まれている。通常の竪穴住居数棟は、貯蔵穴
群などと組み合うとすれば、小規模な集落となり、円環構造期に同時存在したならば、
少人数の人々が、特別の役割を以て墓地や祭祀のための特定地区に居住していたことに
なる。次の時期になって、台地中央部を選定した2期の円環構造が対置されたものとし
て設けられる。其処ではまず亀甲形の建物による円環とその内部の空間が形成され、こ
の求心構造が維持されている間に、亀甲形や四角形の建物が何度も建て替えられ、内部
の空間地が規制された二重の円環の墓地域となり、其処に配石墓が所狭しと営まれるに
至る。円環をなす配石墓は、放射状に分割される占地規制の集合であり、平地式建物と
対応した墓地域が内と外、放射状分割地域、配石の類型として厳密に維持されたことに
なる。配石墓は円環を溢れ出る程営まれた後、突如停止され、その外側の広大な地区に、
円形で縁石を持つ柄鏡形の建物が次々と建てられ、その周辺に土壙墓や配石墓が営まれ
た。このような変遷や構造が維持されたのは、この墓を中心とした遺跡の意味が、当時
の人々に了解され、社会的役割が果たされていたからであることは明らかであろう。
大湯環状列石の広大な範囲の遺跡から、大湯式と呼ばれる縄文時代後期前葉の土器や
その前後の土器も発掘されているが、主体は大湯式に求められる。この後期前葉の土器
には、壷や甕や高坏、注口形などの器種で、精巧に加飾されたものが見られる。特に壷
と甕の組合せが確立していることが注目される。他に土製品では円盤状に土器片を加工
したもの、土偶も大型の破片、茸状土製品、吊り下げて用いる鐸状土製品も多く、足形
付土製品やスタンプ状土製品、土器底部に動物形を置くものなど、通常での生活用とし
てよりも、祭祀用に用いたとされる特殊な品々が見られる。また磨製の内湾石刀類も多
数出土している。これらは、通常の生活の集落とは明らかに異なっている。
配石単位としてみられる石組は、墓上の標識であり、その形の違いは死者の生前での
社会での役割を反映するとみられるものである。これが類型として、円環内外で共通し
て見られることは、集落間で共通した役割が広い地域に認められていたことになる。こ
の配石墓が大円環などの場所の規制を維持しながら集合していることや、それに伴う特
異な建物群が矢張り求心的に維持され、この場で求心的な意味を持つ祭祀が続けられた
と考えなくてはならない。然もこれだけの遺構が日常的な経済活動の場としてでなく、
多数の集団グループ、恐らく多数の集落の構成員の墓地として、関係を保った人々が此処
に集まって祭祀と埋葬等を行うことが、長期に亘って続いたとみられ、然も求心性のあ
る構造は長期に維持されたのである。恐らくこの墓地には、この盆地の台地上から見え
る範囲だけでない人々が集まり、石を運び、共同して葬儀や祭祀を行ったと考えられる
のである。この意味を掘り下げるのに、更に若干の例を見ておく。
〈同水系での環状列石〉
同じ鹿角盆地内で、大湯環状列石の西南5qで米代川を挟んで対岸に位置する、これも
台地に高屋館タカヤダテ遺跡がある。これは縄文後期前葉の遺跡であるが、土器の主体は大
湯環状列石より少し遡るか、又はその早い段階に中心を置くとみられる。亀甲形の建物
を環状に配置した外径50m程の円環があり、その内部空間を囲んだとみられる配石列の残
存が見られた。復元すると径35m程の内部空間となる。建物周辺には土壙墓かとみられる
遺構や焼土面が散在する。内部空間にも少数の土壙や埋甕が見られた。建物の建替も多
く、亀甲形が主体で4本柱の例も少しある。出土品も大湯環状列石と同じ傾向であるが、
円環が野中堂や万座より少し小さく、時期的に遡るものが主体と云う点で、大湯環状列
石に墓が集中する直前の、盆地内の状況を示すものかとみられる。
大湯環状列石と極めて共通性のある遺跡が、同じ米代川水系の下流にある鷹巣盆地の
鷹巣町伊勢堂岱イセドウタイ遺跡で発見されている。此処でも台地縁辺の200m四方程の範囲
に、四つの環状配石構造がみられる。その環状構造は遺構の一部の重なりなどから時期
差があることも分かって来たが、調査はなお一部に止まっている。調査されたところで
は、環状の土盛り帯の内部が削平された空間地状をなし、土盛り帯の縁辺に石積列があ
って環状をなし、出入口もみられる。外周に亀甲状の建物が巡り、内外に土壙や小穴が
見られる。別地点で墓壙を伴う配石墓も見付かっている。出土品も大湯の例と同じよう
な傾向が認められている。此処も、盆地の中央部の見晴らしの良い地形にあり、大湯環
状列石と似たような墓地の集合や維持と、長期の変遷があったと考えてよいであろう。
なお、縄文晩期前葉の遺跡として鹿角盆地では、大湯環状列石の南10qkの、米代川上
流の段丘中段にある玉内タマナイ遺跡がある。狭い中段地形に5基の配石墓と土壙墓11基が
見られた。配石墓の下の土壙は貼石状に石で化粧され、上部の配石も小さめの川原石で
小形の日時計型が執られるなどの整備状況がみられる。大湯のように大集合するもので
はなく、多量の亀ケ岡式土器を出土した。以上
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