とりかえばや(続)
2
けっきょく。尊敬できない仕事なんて、何ひとつないんじゃないかな、たぶん。
子供を育てるのも大変なんだなと思う。ちょっとぼーっと自分の世界に入ってい
ると、フユキ激しく愛情を求めてくる。食事を作ってる時にかぎって、あれこれ用
事をねだる。駄目って言っても聞かないのも、愛してよの裏返しなのかな。
子供は愛情もって接していれば素直ないい子になるなんて大嘘だ。あいつら、自
分の根元になるものを持っていて、勝手にそれを自分で育ててるだけだ。親ののぞ
んだ色になんて、なりゃしない。これを無力というんだろうか。それとも楽しみっ
ていうんだろうか。
母親たちは、子供を遊ばせながら、すんごくくだらないことばっかり喋ってる。
バッカじゃないの、って思ってたけど、フユキと二人きりでいるのはけっこうし
んどくて、くだらないことがみょーに嬉しくなったりするから、自分もたいして変
わらないんだと思う。
それに、会社にだってくだらない人間関係とおしゃべりはあるわけで、みんなく
だらないところはくだらないものなんだ。
でも、ほんとは、何がおもしろくないかって。ナツが平然と会社勤めしてること
がやっぱりおもしろくないんだ。
結婚しないでこの年までがまんして勤めあげてきたんだから、苦労もいろいろあっ
た。若いうちに結婚退社した人間に、わかってたまるかっていうくらいの苦労。セ
クハラまがいの肩叩きも笑って流したし、実績さえあげればいいんだって、とにか
く自分しかできないものを積みあげてきたつもりだった。
それをナツは、トラブルも起こさず黙々とやっている。ナツもわたしとおんなじ
で、人に弱みを見せないやつなんだけど、それでも何とかやってるってことなんだ
ろう。
じゃあ、今まで頑張ってきたわたしって何?
わたしじゃなくても、誰でもできることだったの?
わたしだから、やれたんじゃなかったんだ。代わりはいくらでもいたんだ。
もう、いいよ、よぉーくわかった。
今日でちょうど三ヶ月だ。
わたしはじゅうぶんに自信喪失していたし、これ以上ここにいたら、自分で自分
がいらないような気分になりそうなんで、早くあの部屋に戻りたくってたまらない
気持ちで、待ち合わせの場所に出かけて行った。
わたしとナツは、フユキが幼稚園に行ってる時間に河川敷きで待ち合わせをし
ていた。毎月十五日には生理休暇を取るようにナツには言ってある。今日がちょう
どその日で、わたしたちはまた、これから元のサヤに戻るはずだった。
だけどもナツは、それが嫌だって言ったんだ。
「戻れないよ、わたし。ねえ、これからわたし、毎日仕事行くから、ハルがアキ
オさんの奥さんになって」
えーっ、どういうこと、もしかして仕事が楽しくて仕方なかった、なんて言わな
いよね。
「そうじゃないんだけど。フユキだってアキオさんだって、三ヶ月もがまんでき
るなんて思ってなかったの。いつかはわたしじゃなきゃ駄目だって言ってくれるっ
て信じてた。だけどもみんな何事もなかったように生きているの。わたしじゃなく
てもいいのよ。もう、わたしなんて必要ないのよ」
それはわたしだって一緒だよ。あんたにわたしの仕事ができるなんて思ってなかっ
たのに、ひとり暮らしなんて今さらできるなんて思ってなかったのに、居場所がな
くなったのは、わたしだって一緒だよ。自分だけで勝手に決めつけないでよ。ねえ、
それはそうと、テルは元気にしてる? 今でもまだ、あの家に来てくれてる?
わたしはテルのことが心配だった。あんなに気ままなやつだから、そのまま寄り
つかなくなって自然消滅でもしてたらたまんないよって気持ちだった。
「来ているわ、週末には必ず。心が落ち着く。ひとりで、しんとしていて、週末
になると、テルはすっぽりと必要になるの。いいバランスだわ、いい生活。こうい
うのもいいなって、思ってしまうのよ」
その日は梅雨のあいまの晴れ日で、日差しが強かった。夏草が萌えた。河川敷き
の無人のサッカー場のまわりで、少しだけ背を高くした夏草は、強い太陽の光を受
けて強く香った。草が萌えるにおい、強い苛立ちのにおい。
強い苛立ち。萌えるように爆発した。
冗談じゃないよ、テルはあんたの男じゃないわ。わたしが欲しかったから、わた
しが望んだから、テルはいるのよ。前の恋人と別れて部屋に帰りたくないくらいに
ひとりで居られなくって、もう、あんなにぼろぼろになるまで自分を賭けるのはや
めようって思って、それでもテルが好きになって、激しくなったり落ち着かせたり
しながら、それでもテルが大好きで。
あいつは、はじめっからただあの部屋にいるんじゃないの、わたしが望んで、わ
たしが見つけた男なんだよ。
草が萌えている。いのちの匂いがする。いのちが萌える匂い。わたしのいのちの
源が。
萌える匂いがしていた。
そうよ。そうだったんだ。
みんなわたしが選んだんだ。
わたしの生活もわたしの部屋もわたしのテルも。みんなみんな、わたしが望んで、
だからそこにあったんだ。
ナツ。あんただってそうでしょ。あんたがアキオさんを見つけて、あんたが暮ら
しを作って、あんたがフユキを生んだんだ。
「そうかもしれない。わたしはアキオとフユキが大好きで。でも、いつか誰かが
死んで、わたしたちは分かれてしまうんだって思ってしまうの。アキオって、そう
いう時に限って、すっごくくだらないジョークを言うのよ。思わず生き返るくらい、
くだらないジョーク。戻れるんだったらわたし。もう一度、あれを聞いてみたいな
あ」
アキオさんはわたしに、そんなくだらないジョークなんて一度も言わなかった。
それはきっと。ナツの持っている「重さ」のために、用意されてたものなんだよ。
二人で夏草の上に寝転がった。直射日光がぎらぎら顔に当たる。それを遮るよう
に腕を上げて。太陽も夏草も風にそよいで、みんな、ただ、そこにあるだけのもの
なのに、生きていくわたしのために、それがあるような気がして、ナツは昔っから
泣き虫で。その時も少しだけ泣いていて。
でもわたしたちはもう、同じ大学で、同じようなことばかり考えていた頃には戻
れないんだ。別々の暮らしの中で、人にはわからない繋がりをいっぱい持っている
んだ。
それが、簡単に取り替えられるくらいの薄っぺらなものだとしても。
わたしは、それでもいい。それでも自分が戻りたいんだから。
さあ、そろそろ帰ろうか。
テルに逢いたくなっちゃった。ケイタイに電話してみようかな。
何がやりたいかって、今、また、元に生活がやりたくてたまんないんだ。
世界があと一週間で終わるとしてもさ。わたしは毎日仕事に行って、ひとりでし
んとしてみて、それからテルと会っていたい。
ナツ、あんただって。フユキにごはんを作ってあげて、アキオさんのくだらない
ジョークに笑って、生きることの不可解さを忘れてしまえばいい。
あと一週間で世界は終わる。
さあ、早く家に帰ろう。
こがゆき