とりかえばや
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ひとり暮らしって寂しいでしょ、って言われるのは嫌い。だけど、いいね、ひと
りだと好き勝手にできて、って言われるのも、同じくらい嫌だ。
好きな人とさっさと一緒に住みたかったんだけど、たまたま縁がなくってこうし
ているだけ。そんなのあんたたちに関係ないじゃん。
だけどある日ナツの前で、私も、だんなと子供のいる暮らしって、一度やってみ
たいなって、ふっとつぶやいてしまった。
じゃあ、わたしと交代しよう、ってナツは言った。
「だけど、三ヶ月だけね、私、独身のころ、ひとりでごはん食べるのが嫌でたまん
なかったのよ。でも時々、あのころみたいにひとりになりたいなって最近思いだし
たの。わかるでしょ、こんなにうるさくっちゃ、時にはひとりになりたいわよ」
ってナツは言った。
それで、三ヶ月だけ交代しよう、ってことになった。
ナツの息子の五歳になるフユキは、ハルさんがおかあさんだって言ってはしゃい
でいる。
それを見て安心したらしく、ナツはそそくさとわたしのアパートに帰ってしまっ
た。
フユキと二人っきりだ。キャアキャアまとわりついてくる。わたしはそれをギュッ
と抱っこしてみた。一度やってみたかったんだ。ふんわりしててあったかい。他の
ものには代え難い心地よさも、毎日だったら飽きるというんだろうか。ナツもぜい
たくなやつだ。
そうこうしているうちにナツのだんなのアキオさんが帰ってきた。
「おや、ハルさん、こんばんは。ナツはお客さんをおいてどこに行ったのかな」
「三ヶ月だけ交代したんです。その間、わたしがアキオさんの奥さん、よろしく
お願いしますね」
アキオさんはちょっと驚いたような顔したけど、ナツは言い出したら聞かなくて、
とっぴなことばかり考えだすのは承知の上らしい。そうか、しょうがないなあ、っ
て言って、そのまま着替えてテーブルに座った。
わたしは夕飯を揃えてビールを二本出して、お相伴した。
「そうか、ハルさんは飲めるんだな、ナツはぜんぜん駄目だから相手になんなくっ
て」
そのうち、はしゃいでいたフユキは眠気を感じたらしく、お布団に入れるとコテ
ンと寝息をたてはじめた。
それから二人でビール飲みながらテレビを見た。
いいな、夜遅くても話せる人がいて。家族のいる家には、テレビ以外にもいろん
な音があって。空気が重たくなくって、ふんわりとあたたかい。
ナツは、アパートのテーブルに座って、コンビニで買ってきた週刊誌をパラパラ
めくった。しんとした夜には自分のカタチがクリアになるような気がした。そうだ、
昔はこんなふうに自分だけと向きあっていた。大切な人が増えるにつれて自分も愛
せるような気持ちにもなれたけど、こんなふうに大気の中に自分だけが浮き立つよ
うな感覚はなくなっていった。
仕事に疲れて家に帰り、そしてひとりになる。その繰り返しがまったく嫌いだっ
たわけじゃない、ただ、それが限りなく続くように思えてこわかっただけなんだ。
朝になるとナツは、ハルの勤めている会社にも出勤した。髪型をまねて、白衣を
はおった。おはようございます、と言って机に座ったが、不自然な部分があったの
かもしれない。今日は、なんだか感じが違うねと、何人かの人に言われたりもした。
そうですか、と言って笑うと、それ以上だれも何も言わなかった。
健康食品会社の研究室で、マウスを使ったデータを取る仕事。内容はある程度聞
いていたし、同じ大学の同じ学部にいたから、要領もだいたいわかった。書きかけ
のレポートも、何とか文体を真似て仕上げた。会議でレポートの報告もした。次の
実験の指示を受け、また研究室に戻っていく。アシスタントの女性たちと、ワイド
ショーで離婚を発表した歌手の話をしたり、弁当を一緒に食べたりもした。
かなり緊張したし、口うるさいと聞いていた女性の上司にはずいぶん気を遣った。
だがハルの役割を演じるだけだから、それに消耗することもなかった。むしろ、感
覚を取り戻して仕事に熱中することが楽しくてたまらなかった。仕事をするのは悪
くはなかった。労働には報酬がある。わたしにもまだ、それができるんだとナツは
思った。
さて、と。
会社でトラブルが起こったら電話してくるだろう、と思ってたけど、ナツは何も
言ってこない。そんなにうまく行くなんて、肩すかしをくらったようだ。
今日、幼稚園にフユキのお迎えに行ったら、髪型変えたのね、と、どこかのおか
あさんに言われた。そうか、ナツはこんなにヘアワックスをベタベタつけはしない
んだ。
フユキくんのおかあさん、と言って、お食事会の打ち合わせをされた。フユキが
一緒だから誰も疑わない。それでわたしは、ナツがちょっとかわいそうになった。
ここでのアンタの存在感って、こんなもんだったんだよ。
フユキはお友達と公園で遊びまくって、ごはんを食べたらすぐに寝た。眠りにつ
く前のまどろみの中で、わたしを、おかあさんと呼ぶ。わたしがフユキのやんわり
した手を握ると彼は、その感触に安心したようにふわりと目を閉じた。
子供は馴れるのが早い。だけどわたしだって、おかあさんでいられるんだ。そう
思うと、ちょっと誇らしかった。
フユキが早く寝たから、わたしたちには時間がいっぱいあって、アキオさんとわ
たしはその日セックスをした。別に誰とでもセックスするわけじゃないんだけど、
その時はなぜか、自然に身体の力が抜けていった。ナツとは男の趣味は違うけど、
許せる部分と許せない部分はよく似ている。アキオさんは許せる男なんだ。わたし
たちは、とりたてて緊張する事もなく肌を合わせた。
なんだかナツになれたような気がした。ナツという女の、安定したおだやかさの
源がここにあるような気がした。わたしは、ひとりでいる時は少しだけ緊張してい
たみたいで、そんな自分を忘れられたような気持ちになった。
「ナツ以外の人と寝るのって、どんな気分?」
そう尋ねると、アキオさんは真剣に答えに困ったように、考えながら言った。
「うーん。こんなもんかなって感じ、かな。ハルさんとナツって、あんまり印象
変わんないし、同じ種族って感じでしょ。とりあえず今は夫婦なんだし、こういう
のもアリかなって。でも、悪いけど正直言って、自分でも不思議なくらい違和感が
ないんだ。たまたまナツと結婚したんだけど、他の人と結婚してたかもしれないし。
でも、誰と一緒でも、おれってたいして変わんないじゃないかって思ってしまった」
わたしだってそうだ。こういう生活をしてるわたしってのも、不思議に違和感が
ないんだ。こういうふうにだって生きられるんだ。そう思うと、人生いろいろ、ま
だまだできるかも、って気持ちになれた。
ところで、ナツも。こんなふうな気持ちになるんだろうか。
こんなふうにしてわたしの恋人とセックスしたりするんだろうか。
ナツは毎日をひとりで過ごしていた。ハルは仕事の後はいつも、友人の家や行き
つけの店などに出かけていたが、自分にはそういう場所がない。だから、夜に映画
に出かけたり、閉店間際までショッピングセンターをふらふらしてみた。それは旅
行先で時間を潰すときのような、孤独でいて心地よい感触だった。
仕事にも馴れて疲れもたまらなくなると、今日は帰りにどこに行ってみようかと
考えるようになった。家に帰りつくのは十時すぎである。風呂あがりには、テレビ
を見ながらマニキュアを塗った。フユキが起きている時間にはとても塗れない、ア
キオと喋りながらやるといつもやり損なう。自分に集中してマニキュアを塗ったり、
ゆっくりと美容院に行ったり、そんなささいなことがやれる生活が、嬉しかった。
週末になると、ハルの恋人のテルがドアをノックした。
「あれ、ハルじゃないね、あんた、誰?」
ハルでないと見破られたのは、これがはじめてだ。上がってもらって理由を話し
た。
「そうか。でも、気分転換にいいでしょ」
テルは能天気なやつだとハルはいつも言っていた。なるほど、その通りだ。
テルは、まるでハルと一緒にいるみたいに、先週出かけた釣りの成果を自慢げに
喋った。そうして喋りながらそのまんまナツを抱き寄せた。突然、強烈なあたたか
さに包まれたようだった。
「なんかさ、今さら、今日は違う人だから帰ろうとも思えなくってさ」
明日も釣りだから朝が早いんだとか、誰の車に乗っていくんだとか、そんなとり
とめのない話をしながらナツの肌を味わっていく。テレビもあかりもつけっ放しで、
いろんな雑音の中で、それでもテルに集中していった。
アキオとは違うし、自分にはおそらくこれからも縁のないタイプだろう。
それでもわたしは今はテルに抱かれたいと思っている。それは多分、この部屋や
ここの日常の持っている空気のせいだ。
ここの日常には、それにふさわしい男がやってくる。空気を壊さないくらいに乱
して、寄り添うことのない交わりを望んでいる男。
研ぎすまされるほどに、わたしはテルを激しくのぞんでいく。痛いほどわかる。
痛いくらいにズキンと、激しく交わりたいと思う。
この部屋の大気に漂うものを賭けて、わたしは自分を投げ出す。
ここにはここの男がいて、ここにいるわたしが、それを望んでいるんだ。
(続く)