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グリーンアイズ5 夏休み
長いクロールのあとの息継ぎのように、夏休みがやってきた。
と言っても補習は毎日、だけど時間が短い分だけ気が楽だ。
学校ではわたしは浮かない程度に同性の友人と話し、気の抜けたコーラみたいな話題にうなづく。まったく。毎日気の抜けたコーラばっかりだ。ときどき誰かの顔に向かってゲップが出そうになる。
今朝、お母さんは同じマンションのおばさんに電話をしていた。朝のお化粧をする前にぜひ来てほしいと誘ってる。洗顔から化粧水、メイクアップまで実際に体験してほしい。「そうすれば、これの良さがきっとわかるはずだから」って。
出かけるとき、そのおばさんと玄関ですれ違った。おばさんと言っても最近結婚して越してきた若い人だ。化粧してない肌がつやつや。明るいピンクのブラウスでスタイルもいい。だけど表情はひどくおどおどしてた。ああ、そうだね、ひとりで魔女の家に飛び込むんだから怖くてしかたないよね。でも、そんなに怖がったらダメ、毅然としなくっちゃ。
やってきたおばさんは勤務医の奥さんで裕福そうな感じだ。もっともそう言う理由で選ばれたなんておばさんは知らない。
お昼の2時すぎに帰ってみると、まだそのおばさんは居間に座っていた。
朝の透明な顔が毒々しくなっている。ああ、おかあさんが化粧したんだなとひとめでわかった。目のまわりは潰れた葡萄みたいだし、唇は血を飲み込んだみたい。10才は老けたなと思った。
「こんなにきれいになれるのに、どうして買おうと思わないの? 若いうちに決断しないと、大変なことになるわよ」
「でも・・・最初から全部をラインで揃えるなんて。わたし、敏感肌だし・・」「敏感肌の人こそ使ってほしいの。そりゃ、最初はヒリヒリしたかもしれないけど、好転反応って言ってね、それを過ぎたら比べ物にならないくらいにきれいになるのよ」
「あの・・・もう・・・買い物とかあるから失礼したいんですけど・・・」
「ダメよ。ここで帰っちゃ、きっと後悔するわ。せっかくこうして出会えたのに、それを無にしてしまったら、ああ、あのときもっと強く教えてあげればよかったって、わたしも後悔する。いい? このパンフレットをよく見て・・」
「いえ、もう失礼します」
そう言ってその人が立ち上がると、お母さんはやんわりとその肩を掴んでもう一度座らせた。おばさんの顔がぶるぶる震えてた。
「いいかげんにしろよ!」
テーブルの化粧品の瓶を手で倒してしまった。瓶は隣にあった紅茶のカップにぶつかってカップはこなごな。ガラス片と紅茶の染みがおばさんのブラウスに飛び散った。
「碧、なんてことするの、失礼じゃない!」
「失礼なのはどっちだよ、おばさん、イヤなら帰りなよ、この人、頭おかしいんだから」
お母さんがわたしの頬をひっぱたいた。真っ赤な顔してひっぱたいた。
「わたし、失礼します、こ、これ以上、わたしに関わらないでください! 今度、こんなことしたら警察に・・・」
そう言って、おばさんはブラウスがすごい状態のまま玄関に駆けていった。走るたびにカップの破片がぽろぽろ床にこぼれ落ちていった。
「碧。人の仕事、どうして邪魔するの。もう少しで買ってくれそうだったのに!」
「買うわけないじゃん! 嫌がってるのもわからないのかよ」
「嫌がってるんじゃないわ、決心がつくのに時間がかかる人なだけ。そんな人だって時間をかけて根気強くやれば、みんなわかってくれるのに。なんで、それを・・・」
「あんたがやってるのは押し売り! 見てるだけで貧乏臭くなるよ。そんなに儲けもしてないくせに」
髪の毛を掴まれた。すごい顔して掴まれた。振り払おうとして、おなかに思いっきり蹴りを入れた。それで、お母さんは手を離した。すごい痛かったんだろう、うずくまっている。
柔らかいお母さんのおなかの肉の感触が、足の先でじんじんしてきた。肉がよじ曲がり、へこむ感覚。内臓がねじれる音。お母さんは、そのままおなか押さえて呻いている。
恐ろしくなって、わたしは部屋から飛び出した。
震える手でタイチの家をピンポンする。
やあ、とタイチが言うと同時に、涙がぽろぽろ出てきた。震えるわたしは、抱きかかえるようにして居間に運ばれる。座らせられ、肩を抱かれても震えが止まらない。とりあえずは、何も聞かずにタイチはずっとわたしを抱きしめていた。
地面の下の方までわたしが沈む。ずんずん落下するわたしは、タイチの腕にしがみつく。それで何千メートルも沈んでいってから、ようやくどっかの地面にたどり着いた。海の底の暗くざらついた深い場所だった。
「そっか、碧んちのおばさんはマルチなのかあ。でも、出会い系よりかマシじゃない?」
そんなことない、とわたしは思う。わたしとタイチのお母さんはいろんなことを話せた。だけどわたしは、自分の母親には何ひとつ話したことがないのだ。
「どうして大人なのにバカなの? 大人は、わたしたちがしてるような勉強もいっぱいしてきて、それなりに生活してるのに、なんで子供でもわかるようなことがわからないの? もともと生まれつきバカなの? だとしたら、わたしも大人になるとあんなふうなバカになっちゃうの? わたし、あの人のDNAが身体の中にいっぱいあるんだよ、そういうのって耐えられない」
「碧は大丈夫。碧はそうならない。俺もならない。絶対ならない。なんでかって言われてもわからないけど。俺たちは、そうじゃないんだ」
とりあえず、帰りたくないんでここに居させて、と言ったら、タイチはいいよと答えてくれた。
すごく簡単な、いいよだった。水飲ませてくれない? いいよ、くらいの。
電話だけしとかないとお母さん、探すよ、と言うんで、アヤに頼んだ。
するとアヤは着替えとか持ってきてあげるよ、と言ってくれる。
「わたしが学校行ってないこと言ってないんでしょ。わたしのウチから補習に通うって言うわ。ときどき電話だって入れてあげる。宗教の勧誘であれだけ回ったんだもん、碧のお母さんなんてちょろいもんだわ」
アヤは自信たっぷりにそう言った。ここ数ヶ月外出すらしたことがないのに・・・
長い夕暮れが終わる頃にアヤがやってきた。
小さな子供が遠くのおつかいから帰ってきたみたいに、ほら、と自慢気にボストンバッグを渡してくれる。
「お金もくれたよ、食事とか迷惑かけるからって」
そう言って何枚かの万札もわたしにくれた。助かったと思う反面、ああ、お母さんってほんとにわたしと会いたくないんだなーと痛感してしまった。
タイチを紹介するとすぐに、お願いがあるの、とアヤが言う。
「わたしもウチを出ることにしたんだ。でもその前に碧とタイチくんに会っておきたくて。迷惑じゃなかったら、今日だけ、ここに泊めてくれないかな?」
「アヤ・・・あんたどこ行くの?」
「教会。といっても、ずーっと遠くの教会だけどね。信者の中にはそういう人もいてね、各地をまわって教会に寝泊まりするんだ。しばらく、そういうとこに行こうかと思って」
「だって・・あんた、神様、きらいだったんじゃない?」
「きらいだよ。だけど、ここだと誰ともうまくやれないし。知らない場所の方がふつうでいられるような気がするんだ」
タイチはしばらく何ごとか考えてからこう言った。
「アヤちゃんには碧がいるんじゃないの? 少なくとも俺にはそう思えるけど。だったら、碧といっしょにこの家にいたらどうだろう」
びっくりした。だけど、タイチってそういうヤツなのだ。
「タイチがいいのなら、わたしもアヤにいて欲しい。そんなとこ行くくらいなら、ここで3人で暮らそう!」
アヤが黒目がちの大きな目を見開いた。そのまま口に手を当てて、大きな目からぽろと涙がこぼれてきた。
「恋人なんじゃないの? わたしなんかいて、邪魔じゃないの?」
「そんなふうに括らないでよ、大切なのはどっちもいっしょだよ」
「しばらくいて、どうしてもイヤだったら教会に行けばいい。だけど、アヤちゃんって。おれたちと一緒にいた方がいいような気がするんだ」
そういうわけで、わたしたち3人の合宿生活は始まった。
毎朝アヤはパンを焼いてくれる。フルーツとかカフェオーレとかも作ってくれる。まともな朝食なんて久しく食べてなかった。わが家の朝食は菓子パンだったりするから。わたしたちはアヤの作る食事をむさぼるように食べた。
わたしとタイチは夏休みの課外に出かける。アヤは部屋にひとり。タイチの部屋には本もDVDもパソコンもあるから退屈しないみたいだ。
タイチはベッドのマットレスをひっぺがしてアヤのベッドを作ってくれた。
タイチのベッドには客用の布団を引いた。そのふたつが、子供部屋にしては広めのタイチの部屋に並んでいる。わたしは、タイチのベッドに寝たりアヤといっしょに寝たりして、ふたりのあいだをその日の気分で行き来していた。
「ほんと、毎日たのしい、修学旅行みたい」そう言ってアヤが笑った。
アヤは話しながら、新品のケイタイ電話を弄ぶ。アヤが遠くの教会に行くと宣言した日、父親が見送りがてら近所のケイタイショップで買ってくれたものだ。オレンジの色鮮やかなケイタイだった。
「お母さんにはちゃんと自分が話しておく。でも、いざと言うときのためにこれだけは持っていなさいって買ってくれたんだ」
そう話すアヤは少し嬉しそうだった。アヤのお父さんは信者ではないのに、なぜか教会に関しては寛大だ。たぶん、隠れ信者なのよ、とアヤは言う。新興宗教の信者になる勇気はないけど、神様を頼りにしてる人。臆病者の小市民。でも、臆病な分だけ、お父さんの方が好きだな、なぜか。
アヤはときどきウチの母親にもアリバイ工作の電話を入れてくれる。お母さんは「会いたくないから、もうしばらくお願い」みたいなことを、その度アヤに言うらしい。
そんなある日の夜、タイチのベッドで、行きがかりでセックスをしてしまった。タオルケットの下でタイチが脇腹を触ったり耳朶をくすぐったりしたせいだ。小声でやめてよ、なんて言ったけど、だんだん気分になってきて。声が漏れないように唇を合わせたけれど、そこからまた別の吐息が漏れてきた。
タオルケットの中で繋がった。横向きに抱き合って、用心深く動いた。だけど、緩慢な動きはまどろっこしく、上になったタイチが温室みたいなタオルケットをはぎ取って、大きくわたしの足を持ち上げた。
不思議だな、いままでそんなことなかったのに、なんだかすごく気持ちいいところに当たってしまった。ふわふわの綿菓子が潰れて、甘い砂糖の塊になっていくみたいだ。
夢中になりながらもふっと横を見ると、アヤが身体を起こしてこっちを見ていた。小さな明かりの中で、ふくろうみたいな静かな目をしてた。
「あ、ごめん・・うるさかったね」
「ううん、全然、続けて・・・」
そう言われても・・・なんて思ってたら、「イヤじゃなかったら見ていたいの、お願い」ってアヤが言うもんだから、とちゅうで止めることもできず、わたしたちの感覚は、またもや集中していった。
見られてたから感じるとかじゃないんだろうけど、とにかくその日は感じまくった。わたしのずっと奥の方が気持ちよくって、ああ、だからエッチビデオの女の人たちはあんな声出すのか、と納得してしまったくらいだ。
だけど夢中になった分、終わったあとの恥ずかしさもすごくって、ドロドロの砂糖まみれのわたしは、逃げるようにしてシャワーに駆け込んだ。
戻ると白い蛍光灯が煌々としていた。
「ごめんね、アヤ」
「ううん、全然。わたし、セックスってもっと動物みたいで生々しいのを想像してた。自分は一生こんなドロドロはしないだろうなって。でも、碧たち見てると、あ、これって気持ちいいことなんだって思ったよ」
「アヤは。セックスしてみたくないの?」
「しない、かな? わたしは多分、誰かの前で裸になったり、誰かに何もかも見せたりはできないと思うんだ。そういうのって一生しないような気がする」
そっか・・・アヤはそう思ってるんだ。
わたしはアヤを後ろから抱きしめた。
「ねえ、こうすると、安心しない? 別に裸になったりするんじゃなくって。これってセックスにすごく近いと思うよ」
アヤがわたしの回した腕に掌を重ねた。アヤの息づかいがゆったりとなって、身体の力が抜けるようにしてわたしにもたれかかってきた。平たい地平線のようにアヤが広がった。アヤの首がふわっと後ろに折れる。その首筋にタイチがおそるおそる指を這わせる。すると、アヤの身体はまたもや固まってしまった。
「アヤの肌は真っ白ですごくきれいだよ。でもアヤの神経は、この肌みたいにピンと張りつめているんだ。でも、ここではそうじゃなくてもいいんだ。」
楽しいと言いながらはしゃいでいたアヤ。でも、その微妙な違和感をタイチは知ってたんだ。
「だって、ほんとに自分がしたいこととか、どんなふうにすればいいのか、わたしにはわからないの。ここにいたいから・・・いつもみたいじゃいけないと思うけど。ふつうにしておくのって、どんなふうにすればいいのか、わたしには全然わからないんだよ」
修学旅行みたいだねってはしゃいでいたアヤの違和感にやっと気づいた。大切な教会の行事と重なってしまったアヤは中学の修学旅行に行かなかったんだ。
わたしは、神様を憎んで、それからアヤに神様のお手伝いをさせた母親を憎んだ。ほんとうの「イヤ」を言う前に、アヤの身体は動かなくなって。アヤはまだ、ほんとうのイヤが言えないままなんだ。
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