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.kogayuki.  グリーンアイズ4 愚か者の遺伝子


 朝、目を覚ましたらお母さんは電話をしていた。
 何も朝ごはんがない。仕方ないんでわたしは冷蔵庫にあった「飲むヨーグルト」をググッと飲んで学校に行った。
 授業が終わって家に帰ったら、母さんはその時もまだ電話していた。

 昨日、お母さんが仕事をしてる例の化粧品の会社が摘発された。マルチまがい商法とかいうやつだ。夕方のニュースで、アナウンサーが冷たい口調で会社の名前を読み上げてた。
 お母さんはポカンと口を開けて画面を見つめながら、世界の終わりを予感した。それからお母さんは慌てて会社の人に電話して事の次第を尋ねた。そして話を聞いてるうちに開きなおった。いや、言いくるめられたと言うのかな?
 そういうわけでお母さんは今、正義の戦士の顔をしてお客さんに電話をかけまくっている。だれかの陰謀にはまったんだとか、成長してる会社だからやっかみが多いんだとか、とにかく仕事は続けるから、わたしを信じてこれからもつきあっていってとか。
 そんな電話をずーっとかけていて、わたしが帰ってきたのも全然気づかない。それでわたしは、そのまま外に出ることにした。
 くだらない人間なんて、世の中にいっぱいいる。だけど、知らない人間は、ただくだらないだけで、わたしに危害は加えない。
 だけどお母さんは違う。お母さんは、血の繋がった親子で、わたしを養ったりわたしに道を説いたり要求をしたりする。血の繋がった親の愚かさは、やはり、どうしようもなくって、悲しい。
 わたしの気分と言ったらもう、今日のこのきらきらした黄金色の夕焼けが、錆びついた十円玉にしか見えなかったくらいで。当然そのまま家に戻る気にもなれず、わたしは塾のある日じゃないのにフラフラと、またもやタイチの家に向かってしまった。

 台所のテーブルで、タイチはわたしにサイダーを注いでくれた。
 部屋のテレビからは六時のニュース。もう母さんの会社のことなんてひとこともない。あんなの、半日で忘れられるようなニュースなんだ。
「悪い、碧。せっかく来てくれたんだけど、今、パソコンでソフトのダウンロードしてるとこなんだ、よかったらここでテレビでも見ててくんない? 時間はいいんだろ」
 ああ、そうだね、塾の日でもないのに、いきなり訪ねたわたしが悪かった。
 いいよ、ゆっくり、って言ってから、わたしはテレビのチャンネルを変えて「パワーパフガールズ」の再放送を見ることにした。

 そう言えば。昔、こんな感じで、この台所でタイチを待ってたことがあったな。まだ、タイチのお母さんがいた頃だ。
 中学の頃、学校を休んだタイチにプリントを届けに行った日だった。
 タイチは病院に吸入をしに行っている、せっかく来てくれたんだから、よかった待ってて、と言って、頂き物のとても高級なケーキを出してくれた。(そう、タイチはあの頃けっこう喘息で学校休んでた)
 タイチのお母さんは、煮物の味付けをしてから弱火にして、さ、わたしもひとやすみ、と言ってテーブルのお向かいに座った。
「ねえ、碧ちゃん」
 タイチのお母さんが、わたしをまじまじと見つめて言った。
「おまえら、みんな死んじまえ、って気分になることってない?」
 頭がよくて話のわかるタイチのお母さんはその日、くすんだピンクのTシャツを着てて。死んじまえ、って言葉にはびっくりしたけど、言いたいことはよくわかった。
 わたしは学校の友達なんか大嫌いで、ほんとにみんな死んじまえ状態だったからだ。
「いつもだよ、おばさん。いつも、みんな死んじまえって思ってるよ。学校の友達なんか、みんな。でも、おばさん、大人になっても、そんなふうに思ったりするの?」
 タイチのお母さんはさみしそうに笑った。
「大人だってみんなそうよ。くだらない子供がくだらない大人になれるわけないじゃない。ああ、そういう言い方はよくないねー。要するに、自分をわかってくれる人間は、ほんの一握りで、あとは絶対にわかりあえない人ばっかり、一生相手にしなきゃいけないってことよ」
 そっかあ、わたし、甘かったなあ・・・大人になったら少しはマシになるって思ってたもん。
「ねえ。碧ちゃん。みんな死んじまえって気分になったときって、どうしてるの?」
 わたしはしばらく考えてから言った。
「そゆときは、音楽聞くかな? タイチから教えてもらったブルーハーツとか・・・そうすると、けっこうスカっとするよ」
「音楽かあ・・・碧ちゃんは大人だねえ・・・」
 タイチのお母さんの言ってることが、そのときはよくわからなかったけど。要するに、音楽くらいで我慢してるわたしは大人だって言いたかったんだろう。
 ねえ、おばさん。みんな死んじまえって気分で、ここを出たの? タイチには悪いけど、それってちょっと羨ましいよ。だって、わたし、死んじまえって思ったって行くとこなんてないもん。それって、やっぱ大人だからできたんだと思うよ。
 わたしは、テーブルの向こう側のタイチのお母さんの気配に向かって、そう話しかけた。

 タイチのお母さんが出て行った日、わたしとタイチは2階の窓からお母さんを見送った。
 ほんとは、ちゃんと会って言いたいことがいっぱいあったけど、そんな雰囲気じゃなかった。それでわたしたちは2階に上がって、そこから手をった。
 タイチのお母さんは、何度も振り返って手を振った。でもそのあと急に決心したみたいにまっすぐ前を見て、すたすたすたっと早足で行ってしまった。
 タイチのお母さんは家を出たのに。その男の人は離婚したりはしなかった。
 だからといって家に戻ったりはできなくて。ひとりで小さなアパートにいる。
 それはすごくつらくて悲しいことなんだろうか?
 それとも、離婚してくれなくても、今よりか幸せなんだろうか?

 タイチが、階下に降りてきた。「パワーパフガールズ」の再放送はいつのまにか終わってた。麦茶を飲むタイチの喉がゴクンと鳴る。
「なんか、いろいろありすぎて、面倒」
と言いながらタイチは座った。
 聞くとタイチのお父さんは会社を辞めたらしい。希望退職者には、退職金の上乗せがあるっていうんで、それを元手に輸入品の会社をやることになったんだと言う。
「もしかして。お父さん、今日、家にいるの?」
 わたしはそう尋ねて身を固くしたが、いやいや、マンションをひとつ事務所に借りてるんでそっちにいるんだとタイチは笑って言った。
「そいでさ、あの女が一緒に会社辞めたんだよね」
 あの女とはたぶん、タイチのお父さんのところに泊まっていく女のことだ。
「家にも顔出すし、今も事務所で一緒なんだよ。もう、あっちでほとんど一緒に暮らしてるって感じ。べつに父さんの勝手だから構わないんだけど、なんか向こうもおれが邪魔みたいでさ、ときどきひょいと出会うとギシギシしてしまうんだよ」
「基本的には嫌いじゃないんだけど、立場上苦手ってやつね」
 これはタイチがよく使う言葉だ。先生じゃなかったら嫌いじゃないんだけど、教えられる立場では苦手だとか。平和主義者のタイチらしい言い回しだ。
「そう、立場上すっごく苦手でさ、ちょっと目をそらしただけなのに、身体の関節がひとつずれてしまったみたいで、1日中居心地悪いんだ」
「なんかさ、親が馬鹿げてるのって、せつないよねえ」
 そう言いながらわたしは、ほんとにどうしようもないウチのお母さんを思い出した。
 タイチは、自分の腕をまっすぐに伸ばしてじっと見つめていた。陽に焼けた腕にはごつごつと血管が浮き出ていた。
「この身体の中にさ、くだらない遺伝子がらせん状になってからまってるんだ。おれは時々その中から親父の遺伝子だけをピンセットでひとつずつはずしてしまいたくなるよ。でも、そういうわけにもゆかないし。おれが成長してどんなに変わっていったって、それって消しようがないことなんだよな。もっとも、おれの中には母さんの遺伝子もあるわけで。ま、そっちの方がまだマシかな」 
 わたしは、夜中にひとりで自分の遺伝子に呼びかけながら、お母さんを思い出しているタイチを想像してみた。

 裸のまんまベッドに横たわる。今日の暑さの名残りと、夜の冷気を予感させるひんやりとした風が入り交じり、わたしたちの身体を撫でつける。
 癒されることのないギスギスした感じも、まだそこにあるけれど。頬や、髪や、胸のふくらみを。タイチの指が、夕涼みの風のように上下していって、それでいろんなものが薄められていく。
 指の戯れもまた、セックスよりもずっとセックスに近くって。ただ、触れている身体がそこにあるだけで、わたしたちの愚かさな遺伝子が愚かなままでも、それはそれでいいんじゃないかとわたしは思う。
 アヤも。こんなふうにタイチに抱かれればいいのに、と、ふと思った。
 わたしはタイチといるといつも、なぜだかアヤを思い出すみたいだ。
 お父さんがいない夜に、わたしの誕生日のケーキを切った時。大好きだったお父さんにも分けてあげたかったみたいに。心地よい瞬間にはいつも、今、ここにいない人のことを思い出すのだ。
 こんな感じなんだよ、アヤ。抱かれるときって、頑なものが薄められたりするんだよ。わたしのこの瞬間をいつか、アヤに分けてあげられればいいなと思いながら、わたしは心の中でアヤの名前を呼んだ。
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