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グリーンアイズ2 アヤ
昔、わたしは笑っていた。
わたしはただ、ニコニコ笑っていただけなのに。
その笑顔は神様が与えてくださった宝物よ、と母は言った。
ひまわりが咲いていた。汗ばむ道を母と手を繋いで歩くと、蝉の声が幾重にも反響した。それは天空から奏でられるオーケストラのように聞こえた。世界は疑いなく居心地のよい場所だった。
小学生の頃。アヤは母親に連れられていろんな家を回った。
最初に挨拶して、家の人にパンフレットを渡す。それがアヤの仕事だ。こんにちは、これ、読んでください、アヤがそう言ってにっこり微笑む。猜疑心を氷解させる微笑だ。端正なアヤの顔がバランスよく崩れると、洪水のあとに澄み渡った空が広がるように世界の不安がすべて消え去った。
誰もが無防備にその微笑みに屈した。まあ、可愛らしいお嬢さん、お母さんのお手伝い? 偉いわね。
もっともその後に繰り広げられる宗教の勧誘なんかまともに取り合ってくれる家はないわけで、母親が喋りだすとやんわり断られるのがオチなのだが。それでもアヤに対しては誰もが無防備に好意的だった。時に人々は、アヤの手に一握りのクッキーやキャンディを握らせ、時にはアヤの細やかに輝く髪を撫でつけ、何度も手を振ってこの小さな王女との別れを惜しんだ。
母にとってのアヤは無敵のパートナーだった。だが、その部分を差し引いてもまだ、母には余りある愛情があった。母はその柔らかな感触を楽しむように、ふたりで歩いているときでもコロコロとアヤの掌を握りいとおしんだ。
アヤは神様のお手伝いをしてるの、素晴らしいわ、アヤはきっと、神様に愛されてるのね。母は布教のたびにアヤにそう言った。
神様のお手伝い。神様のお手伝い。
アヤはその甘美な言葉を心の中で何度も繰り返した。
だけど、あの時代にわたしは。人生の楽しさをすべて使い果たしてしまったのだ。
今、十五才になったアヤは、そう思っている。
つい最近までアヤは母親と一緒に回っていた。
だけども人々はもう無防備にアヤに接することはなかった。
アヤの顔だちが端正なことには変わりない。だけども人を惹きつけるようなオーラは成長するごとに消え失せた。背が伸びて身体が大きくなり、少しの分別を覚えたと引き換えに、宿っていた力が抜け落ちてしまった。
どうしてこんな高校生みたいな子がこんなことをやってるんだろう、そんなとまどいの表情でパンフレットを受け取る。あるいは不快な顔で突き返す。その度に人々の心には悪意があるのを感じた。そして、そうしたやりとりの中で、アヤの微笑みはだんだんぎこちなくなっていった。
こんにちは、どうぞ、これを読んでください。
忙しいのよ、ウチはいらないわ。まあ、まだ若いのに、こんな事して・・・
何かを言ってくれる人はまだいい、ピシャリとドアを閉められる事だって何度もあった。
アヤは失望する。自分が受け入れられなかったことへの失望。不思議なことにアヤは、高校生になったつい最近まで、こういった失望を味わったことがなかったのだ。
神様の声ってなかなか届かないのよ、だからこそ丹念に、いろんな人に伝えていくの。だって、神様の声が聞こえないくらいの絶望の淵にいる人が、どこにいるかなんてわからないじゃない。
母親はそう言ってアヤを励ます。母はどんなに罵倒されてもめげない。神様に身を捧げるっていうのは、おそらくこういうことなのだ。
絶望を抱えている人をアヤは捜し求める。どこかにいるその人を、わたしはきっと救える。何度も何度もそう言い聞かせながら、ドアをノックし続けた。
そうしたらある日、身体が動かなくなった。
布教にでかけよう、と言う母の言葉に応じるのに、身体がどうしても動かない。
冷や汗ばかりが出た。身体中の細胞が、動いてはいけないのだと言った。
身体は、アヤの心と裏腹に神様を拒否していった。涙がぽろぽろ流れた。涙は流れるが言葉はひとことも出なかった。
蝉が鳴いていた。蝉の声は徒労の果てのように耳の奥を締めつけた。
ひまわりが咲いていた。あの夏の日に見たのと同じような、背丈を超えるひまわりが、窓の外の風にゆれていた。
神様に見放されても、ひまわりは笑うんだ。
神様に見捨てられた後でも、世界は続くんだとアヤは思った。
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