絵理ちゃん
2
「それで、つきあいはじめたわけ?」
声を潜めて絵里ちゃんが尋ねた。
カウンターに客はわたしだけとは言え、大きな声で言える話ではなかった。
「ヒロトには言わないでね」
「わかってるよ。でも、よかったね、ちょっと安心したよ」
そう言って絵里ちゃんは、目をくりんと丸めた。そう、彼女は楽しい気持ちになる
ときはいつも、びっくりしたみたいに目を丸くするんだ。
楽しいばかりではない。
わたしは、絵里ちゃんのようにそのまま結婚して一緒にいられるわけではない。
満月が欠けてゆくように少しずつ、光沢が衰えてゆく感触を。矢崎と同じように会
話をしているのに、感じないではいられなかった。
手に入れるのは、たやすい。だけど、手に入れた後にしたいことなんて何もなかっ
たから。わたしたちは、おきまりのように抱き合うだけだ。
その心地よさだけがすべてのはずなのに。それがすべてではいられない自分もいる。
切り取られた、一部だけの矢崎。ゆきの、と、優しく名前を呼ぶ矢崎。だけど、透
き通った矢崎の声が呼ぶのは、わたしの名前だけではないのだ。
床を這うカベチョロを、ある時矢崎が器用につまみ上げた。
「紛れ込んだんだろう、外に出してやろうか」
そう言う矢崎にわたしはこう返した。
「いいのよ、飼ってるんだから。そのままにしといて」
変なやつだな、と言う矢崎の指からカベチョロが解放される。
あなたが来ない日に、代わりになれるのはこいつしかいないんだから。わたしは心
の中でつぶやく。
誰にも繋がらないでいられる自分と対峙できるんだったら。そっちの方がきっと楽
なはずのに。
「ほら、食べてみて」
カウンターごしに絵里ちゃんがアイスクリームを差し出した。
「何、これ、サービス?」
「ううん、試作品。おいしいかどうか、教えてほしいの、わたしが作ったんだ」
白いアイスクリームの横にチョコスティックがふたつ並んでいる。わたしはアイス
をひとかき、口に入れてみた。
あまり甘くない。意外な味だった。なんか、あっさりしたティラミスみたいな。そ
の不思議な感触が舌の先でとまどった。
美味だ。不思議な味だけど、おいしい。
チョコスティックとも、とても相性がよかった。
はじめての味、だけども、これは癖になって、何度も食べたくなるんじゃないかと
思った。
「甘くないけど、おいしい。不思議な味だよ」
「ふふっ。チーズのアイスクリームなのよ」
ああ、だからティラミスのような感触だったのか。
「どう? これ、メニューに入れても大丈夫かな?」
「うん、いいと思う。評判になるよ。看板メニューになるかもしんない」
「店長、ゆきのがおいしいって言ってくれたよー」
絵里ちゃんが厨房に向かってそう言うと、店長という男は静かに顔を出して、わた
しと絵里ちゃんに向かってにっこりと笑った。
絵里ちゃんより少し年上の、短い髪の男だ。黒いエプロンに白い歯がきれいなコン
トラストを作っていた。
いつも積極的に店に顔を出さない店長を、わたしはこの日はじめてまじまじと見た
ような気がした。
***
チーズのアイスクリームは、予想どおり店の看板メニューになった。
ヒロトの両親の店にも同じメニューが加えられ、街のシティ情報誌にも紹介された。
情報誌の「おすすめデザート」のコーナーだ。そこには絵里ちゃんと店長の楽しそ
うに笑っている写真と、チーズアイスの写真がついている。見方によっては夫婦のよ
うだ。いつも無愛想な店長が笑って写っているのが、わたしには不思議でならなかっ
た。
情報誌に掲載されると、客層もおのずと変わってくる。。
どちらかと言うと、食事をしにくる近隣の会社員が多かった店に、若い女性のグルー
プが目立つようになってきた。
それに合わせるようにして、店の雰囲気を少しずつ変わった。
品のいい植物画の額縁がテーブルサイドには飾られ、ドライフラワーのリースが置
かれ、心地よいジャズナンバーがボリュームを押さえて流れている。。
店は遅い時間まで、女性たちの笑い声が響くようになり、ラストオーダーまでの時
間、絵里ちゃんとゆっくり話すことができなくなってしまった。
レジの横には、手作りのビーズのアクセサリーが並べられている。階下の雑貨店の
店主が販売用にと持ち込んだものだ。わたしは、浅いトレイに並べられたアクセサリー
をテーブルに置いて、ひとつひとつを丹念に見つめながら時間を潰していった。
ヒロトはほとんど店に顔を出さないようになってきた。
「ここに来るよりも、早く帰る日くらいは部屋でゆっくりしたいんだって」
と絵里ちゃんは言った。
「わたしもその方が助かるの。ヒロトが帰ってきやしないかと急いで片づけること
もいらないし、あの人勝手に何か食べているし。お互い無理しない方がうまくいくみ
たいよ」
愛がなくなった、というのとは多分違うのだろう。
お互いのために、無理をしない関係になってきただけの話だ。
今、この時間。ヒロトはマンションでひとりでいるのかもしれない。だからと言っ
て、わたしはヒロトと二人でいられるわけでもない。
次々といろんなものを欲しがって、それを手に入れてゆく絵里ちゃん。彼女はすべ
てが欲しいから、ヒロトを手放したりはしない。
時々わたしはそれにとまどうのだが、絵里ちゃんは巨大な渦みたいにして、それで
もわたしたちを、自分の世界に引きつけてゆくのだ。
彼女がいろんなものを手に入れてゆく様は、ラジカルでいて、心地よい。おそらく
ヒロトも、わたしと同じような感触で見ているのではないか。
のぞむ人間には、手に入れられるものがある。
わたしは何をのぞんでいるのかわからない。
矢崎をのぞんで手に入れたような気もするし。それは、時の流れや、埋めたかった
隙間や、そういうものでしかなかったような気もする。
手に入れたはずなのに、手に入れた感触がちっともなかった。
もっと手に入れたいのだとしたら、それはいったい何なんだろう、とも思ったけれ
ど。それをつきつめていく勇気すら、わたしにはなかった。
***
矢崎が訪れる回数は、目にみえて少なくなってきた。
わたしたちはずいぶん無理をしてきた。矢崎は会社から家までの短い時間にメール
を打ってくれたし。少しでも早く帰れる時間があれば、会うようにした。
そんなふうに無理をして会っても、とてもゆったりした気分にはなれない。
部屋で会うときも、しばらくすると矢崎は時計をちらちらと見るようになる。早く
帰りたいのだな、と思う。ここは途中の場所だ。この次の場所が矢崎にはあるのだ。
けれども「帰っていいよ」と、自分から言い出すことができない。
居心地悪そうに矢崎が重たい腰を上げるまでの時間を、わたしはただ待つだけだ。
「さ、家で仕事の続きをするとしようか」とか、「明日は早いからなあ」とか、矢
崎が言い訳めいたひとりごとを呟く。
この言い訳にはいつも、なぜかほのかな愛を感じてしまった。
天井を見上げながらつぶやく言葉は、風鈴の音色のように涼やかだと思った。
積極的で話すのがうまい矢崎が見せる、唯一のアンバランス。
そのアンバランスな矢崎の方がだんだん矢崎そのもののイメージに変わっていった。
嘘をついてまで会う女は、やはり愛しいのか。
それとも、嘘自体が、いつか、わたしたちを失速させるのか。
それを問答するのさえ、面倒になる夜があった。
見境のないエネルギーをそこに費やしてしまうのが、こわかった。これ以上をのぞ
むと壊れてしまいそうで、それもまた、こわかった。
たとえば、誰かを憎んで、たとえば、矢崎が奥さんと別れたくてそうするのなら、
彼は全エネルギーをわたしに傾けただろう。
わたしがヒロトを忘れたくてたまらなくてそうするのなら、わたしは、もっと必死
に矢崎にしがみついただろう。
だけどもわたしたちは、ただ、ひととき一緒にいたかっただけなのだ。
ただ部屋の中で愛し合うだけの、どこへも行けない相手。
でも、そんな人を好きになって、何の意味があるのだろう。
人を傷つけて、無理をして、それで一体何になるというんだろう。
なのに、わたしは矢崎をふり払うことができない。
ひとりになることができなくて、寄生するカベチョロすらふり払えないように。
わたしは傍らにいる者を、失うことがただ、こわかったのかもしれない。
***
「もう会えない」
夕暮れの真っ赤な空を、部屋の窓から眺めていると、そんなメールが矢崎から届い
た。
「メールを見られて、妻に問いつめられた。もう、会えない、今まで楽しかった。
すまない」
簡単な文面なのに、その文字には、いろんな感情が詰まって、震えているように見
えた。
ああ、こんなふうにして終わるんだ、と思った。
開けっ放しの窓から、西日が入って、ケイタイの画面がオレンジ色に染まっていた。
「わかりました。今まで、ありがとう」
そう打ったメールに、もう、返信はなかった。
遅かれ早かれやってくるはずの終焉。
いつやってくるかわからないものへの怯えは、やっとそれで消え失せた。
どちらも言い出せなかったことなので。矢崎の奥さんが断ち切ったのだろう。
地球の磁力はいつもあるべき方向に動いている。それは。強い意思の力がないかぎ
り、あるべき場所にしか行けないのだ。
もちろん矢崎のことは好きだったのだけれど。わたしたちは、生きている世界の流
れを変えるほどの力なんて持ってなかった。
しばらく放心する。
そして、このところ姿を見せなかったカベチョロを思い出し、定位置である冷蔵庫
のあたりに膝をついた。
「おいで」
そう言うが、そんな言葉に反応するほど利口ではない。
埃だらけの冷蔵庫の下や、壁の隅に手を入れて、手当たりしだいに探してみた。す
ると、手に触るものがあった。
ひからびた、カベチョロのミイラだ。
埃だらけで、乾燥して固くなり、ひとまわり小さくなっている。
カベチョロですら。ここに居着いてくれないのか。わたし以外のものをここに留め
られる磁力はこにはないのか。
そう思うと、怒りにも似た激しい悲しさが襲ってきた。
わたしはそのままいつまでも、ひからびたカベチョロのミイラを抱きしめた。
***
二度と会わないというのは大変なことなんだと、そのあとになって痛感した。
もう、二度と会わない、そう決めたのは確かにわたしだ。
だけどわたしは、矢崎に言葉を返しただけで、それがどういうことなのか、まった
く実感していなかった。
実際、二度と会わないというのは、相手が死んでしまったようなものだった。
思い出しても会いたくなっても、絶対に会えないのだ。ケイタイのメールアドレス
がそのままに残っていたとしても、けっしてそこで繋がることはできないのだ。
矢崎の中のわたしも。たぶん死んでしまったのだろう。
彼にとってのわたしは。もう既に死んでしまって、二度と会えない女になってしまっ
たのだと思った。
会社の帰りに、町の中心にある大きなアーケイドを歩いてゆく。するといつも、人
混みの中から矢崎が現れるような気がした。
こんなところにいるはずもない。彼の会社は、ここからずいぶん離れている。だけ
どもわたしは、幻を求めてしまう。
ミイラになってしまったカベチョロの代わりに、また別のカベチョロがやってくれ
ばいいのに、と思ったけれど。どんなにガラス窓に目を凝らしても、わたしは見つけ
ることなんてできない。
ここには何の磁力もない。カベチョロはもう、二度と、わたしの窓辺には這い上がっ
てこないのだろう。
三ヶ月がたって、やっと矢崎のアドレスを削除した。
細胞のひとつひとつにまで染みこんでいた矢崎の感触も。新しい細胞に生まれかわ
るごとに、少しずつ薄れていったはずだ。
そう思っていたのに。
削除しますか、の問いかけに、「はい」を押すと、小さな叫び声をあげて世界が終
わったような気がした。まるで映画のフィルムが途切れるみたいに。確実に何かが終
わったような音が聞こえた。
あるいはそれは、わたしの身体の中に残されていた矢崎の記憶が、悲鳴をあげたの
かもしれない。
生きているわたしの細胞に残っている、矢崎の記憶。
わたしはそれを切り刻みながらも生きているのに。
矢崎の中のわたしは。
もうすでに死んでしまった女になってしまったのだろう。
***
絵里ちゃんの店に入り浸る日々が続いた。
毎日のようにチーズアイスを食べた。
「太るわよ」
と絵里ちゃんが笑う。
太ってもいい、こんなに脱力した身体に染みこんでくれるものがあるのなら。喜ん
でわたしは受け入れよう。
しばらく食欲がなかった反動で、身体は狂ったように甘いもの欲していた。かといっ
て、ごはんやスパゲティは残してしまう。残してしまうのにチーズアイスだけをきれ
いさっぱり食べてしまう。
そのバランスを絵里ちゃんは心配してくれていたのだ。
「たしかに、今が一番つらいんだろうね。でも、ゆきのは偉いよ。ちゃんと、もう
会わないって決めて、会わないで我慢できるんだから」
毎日入り浸っていると、見えないものまでが見えてきた。
絵里ちゃんと店長のことだ。
さりげなく小声で問いつめると、絵里ちゃんはあっさりとそれを認めた。
片づける店内で二人っきりになって。どちらからともなくキスをした。
絵里ちゃんはそう言った。
たぶんそれは違うと思った。
絵里ちゃんが何かをほしがるときの目を、わたしは知っている。絵里ちゃんの、大
きく見開いた丸い目。あれは、相手を自分の宇宙に飲み込んでしまう目だ。あの目で
見つめられると、自分の判断力が消えてしまい、絵里ちゃんの尺度でしかモノを見る
ことができなくなってしまう。
たとえば買い物に行って服を欲しがるとき、たとえば好きな男の子の話をするとき、
たとえば、ヒロトを略奪したあの日。わたしは何度もその目を見てきた。
どんな状況であっても、その目を見ると、絵里ちゃんの欲望は正しい、と、容認し
ないではいられなくなってしまう。
彼女の価値観は、まわりの世界を凌駕してゆくのだ。
そのときのオーラをわたしは知っている。
店長は、その目に飲み込まれてしまったのだろう。たぶん、後先など何もわからず
に。
二人は店を出て、怪しげなホテルへ向かった。
「そういうときって、何もわからなくなってしまうのね。もう、どうなってもいい
やって感じで。そのことだけしか見えなくなってしまうのよ」
「それで絵里ちゃんはよかったの?」
「うーん。まずかったなって思って。それで、それからは行ってない」
それでも二人は、客が帰り静まった暗い店内でキスをする。
一番奥の大きなテーブルの長椅子で。誰も見ていない店内で、絵里ちゃんの衣服が
乱れてゆく。あるいは、それ以上のことも、おそらく日常に行われているのだろうが。
そこまではけして絵里ちゃんは言わない。
ヒロトの両親の店でそこまでやるのは、さすがに、言えないと思っているのかもし
れない。
それでもわたしは、この店の気配が微妙に変わっているのを感じないではいられな
い。
店長が絵里ちゃんを見つめるときの目つきとか。できあがったコーヒーを渡すとき
の仕草とか。それを受け取るときの絵里ちゃんの手の動きとか。
そんなひとつひとつの動作や、店の照明が作り上げる雰囲気に。今までと違ったも
のが宿っているのだ。
それは、梅雨期の湿り気のようにじんわりと、店の中に広がっていて。
わたしはその湿気を感じるといつも、なんだか居心地の悪いように感じるのだった。
わたしは正直言って、店長という男があまり好きではなかった。
話しかけづらい雰囲気の男は苦手なのだ。わたしは自分から人に話しかけるタイプ
ではないので、そういう男とはずっと交わらないままに過ごしていた。
でも、絵里ちゃんは違う。相手の反応によらず、なかば暴力的な明るさで誰とでも
親しくなっていく。
どこかに自分を否定しているような暗さを持っている自虐的な男。
そんな男は、絵里ちゃんの圧倒的な力に、たやすく飲み込まれてしまうだろう。そ
して、多分。そうされることでしか、愛を感じられないのだろう。
店長には結婚を約束した女がいることを、絵里ちゃんから聞いた。
ほら、あの人よ。
カウンターで隣りに座っている女性がそうなのだと、絵里ちゃんはメモで教えてく
れた。
ふわふわとゆるやかに髪をカールさせている。わたしたちよりも少し年若い女性だっ
た。
「ミサキちゃんは厳しい両親に躾られていて、近所の幼稚園で主任クラスの先生を
しているしっかり者なのよ」
そう耳打ちされたあと、ミサキちゃんを紹介された。
厳格な家族に育てられた女が、だらしない男に憧れるのは容易に想像できた。
実際二人が結婚できないのも、両親の反対のためだった。雇われの店長なんて男で
は許さない。きっちりした会社勤めをするか、それが出来なければ、独立して店を出
すくらいの甲斐性がなければ結婚は許さない、というのが、両親の言い分らしい。
そういう状態で、ミサキちゃんと店長は宙ぶらりんの関係を一年以上続けている。
自分の貯金を出してもいいから店を開業しよう、というミサキちゃんに、店長はなか
なか踏ん切りがつかない。
店長はそういうミサキちゃんのことがうざくなったりもする。
二人はしょっちゅうけんかをしているらしいが、それでもこうして離れられない。
二人とも、おのおのに絵里ちゃんにそのことを相談する。
そういう中で、絵里ちゃんと店長の関係は、なおも続いているのだった。
***
「わたしたちはたぶん、三人でひとり前なのよ」
絵里ちゃんは、店長とミサキちゃんと自分の関係をそういうふうに言った。
「ミサキちゃんだって。うすうすはわたしたちのことに気がついてるみたい。でも
それでも、わたしに相談しないではいられないの」
わからないでもなかった。
ヒロトが絵里ちゃんとくっついた後も、わたしは絵里ちゃんと三人でいることを心
のどこかで望んでいた。本当に断ち切る必要がないのなら、それにこしたことはない。
そっちの方が、すいぶん平和なはずだ。
でも、この三人の関係はもっと密だ。
絵里ちゃんの友人であるために、店長もミサキちゃんもわたしに挨拶をする。
そのときわたしは、同じタイプの人間が同じような繋がりを求めてくるような居心
地の悪さを感じ、とてもいたたまれない気持ちになってしまうのだった。
絵里ちゃんは、店長と別れなければ、ということはわかっていて、何度もそういう
ふうにわたしに言う。
そのためには、どんな理由をつけてもこの店を辞めるつもり、とさえ言った。
「別れた方がいいよ。わたしがミサキちゃんだったら、わたしは絶対に気づくと思
うよ」
「うん、たぶん気づいてるね。だって、必ず閉店のあとに電話するし。やばいとき
もあったもん」
「じゃあ、どうしてミサキちゃんは、はっきりと問いつめないの?」
ミサキちゃんはいい子だ。絵里ちゃんの友達というだけで、わたしにも、にこやか
に挨拶してくれる。
「ゆきのさんのカラーリングの色、素敵ですね」
とか、どうしようもないお世辞まで言ってくれる。もしかして、人を疑うなんてこ
とはできないんじゃないかというくらい、純粋な子だ。
「たぶん、そこなのよ」
と絵里ちゃんは言った。
「人にそんなひどいことを聞くなんて、彼女はできないんじゃないのかな。悪口ひ
とつ言えないお嬢様なのよ。だから、悶々としてる。けど、他に相談する相手がいな
くて、結局わたしに頼っている。そんな感じなのかもしれない」
「そういう人って、思いっきり傷つけてやりたいって思わない?」
わたしだったら、そうする。偽善者なんて大嫌いだし、そんな関係なんて嘘っぱち
だ。
「でも。そんないい子を傷つけるなんて。やっぱ悪いかなって、思ってしまうんだ
よね」
そんなふうに思っていて、それですむんだったらそれでいい。
だけど、わたしはもう、そういう世界にはいないんだろうと思った。
矛盾は続けられない。矛盾はお互いをむしばんでいって、矢崎の中のわたしを殺し
ていった。
わたしはそういうふうに存在を消し去られて、ひとりになったのだ。
いつか、そういうものに対峙しなければならないはずなのに。
絵里ちゃんは、いくつもの矛盾を、事もなげに自分の中に抱えこんで平然としてい
る。
絵里ちゃんもいつか、そういう目に遭うのだろうか。それとも彼女はそんな時でさ
え、何事もなかったように世界を飲み込んでしまうのだろうか。
人として。わたしとして。わたしが受け入れなければならなかったものを。
受け入れないで済む人生があるのだとしたら。
わたしはどうして、こんなに苦しいのだろうか。
彼女はもちろんわたしを心配してくれているけれど、けっして気持ちは分かち合え
ない。
絵里ちゃんの中にはもともと。そんな感覚なんてこれっぽっちもないのだ。
(続く)