絵理ちゃん
1
こがゆき
ときどき、地球の磁力が変わる日があるらしい。
ある日ふっと、その日がやってくる。
もっとも少しくらい磁力が変わったって、生活自体は変わらないし、大事件も起こ
らない。
だけどそういう日には、考えられないような磁場ができて、まったく関係のない人
間同士を引きつけ合ったりするのかもしれない。
その日わたしは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「ごめんな、そういうわけだから」
買い物から部屋に戻ってくると、ジーパンのポケットに手を突っ込んだままのヒロ
トの横に、小柄な絵里ちゃんが立っていた。
わたしはぜんぜん意味がわからない。
いつもニコニコしてる絵里ちゃんが今日に限って笑ってない。バツが悪そうに下を
向いている。
わたしが留守のときにヒロトがわたしの部屋にいるのは、わかる。合鍵を渡してる
からだ。でも、なんで絵里ちゃんまで一緒にいるんだろう。
日曜の午後、買物に出てるうちにヒロトは部屋に来て。それからたまたま、絵里ち
ゃんが遊びにきて、二人はわたしを待っていた。
ヒロトと絵里ちゃんはこの部屋で何度か会ったことがある。だから顔見知りと言え
ば顔見知りだったし、絵里ちゃんを部屋に上げたのも別に悪気があったわけじゃない。
わたしが留守にしていたのは、ほんのちょっとだけの時間だった。けれど。きっと
そのあいだに地球の磁力は変わってしまったのだろう。そうとしか考えられなかった。
わたしは、二人を責めたてたい気持ちでいっぱいだったのに、なぜか何も言えなくっ
て。そうこうしてるうちにヒロトと絵里ちゃんは二人で帰ってしまった。
***
とりあえず、ドアを閉めて、鍵をかけて、テーブルに座った。
空気はどこへ行ってしまったんだろう。息を吸っても、肺の中にうまく空気が広が
らない。磁力が変わったせいだ。この部屋には空気さえも流れなくなってしまったん
だろうか。そう思ったら、しだいに腹が立ってきた。
片付けて出かけたはずの休日のテーブルに、飲みかけのコーヒーカップがふたつ残
されていた。そのひとつにはローズピンクの口紅がべったりとついている。それを見
ていると、人がよさそうな絵里ちゃんの柔らかい唇を思い出した。
きっとその唇は、ヒロトの唇に吐息のようにふんわりと触れたのだろう。そう思う
と、カップを放りなげたくなった。
ふたりが座ったテーブルも椅子も、ヒロトのたばこの吸い殻も、ヒロトが誕生日に
くれた安物の時計も。みんな放りなげて壊してしまいたかった。
でも、そんなことしたって、自分しか片付ける人間はいないんだ。そう思うと結局
できなくって。わたしは肩で息しながら、二人の匂いが充満してるわたしの部屋の中
で、ずっと空気を探し続けていた。
夕刻になって、絵里ちゃんから電話がかかってきた。
「ねえ、ごはん、一緒に食べようよ」
少しとまどっているように聞こえるものの、失恋した友達を気遣うようなやさしい
口調だ。
「ヒロトもいるの?」
「……うん」
それじゃあ行かない。
当然そう言うつもりだったのに、その一言がどうしても言い出せなかった。
絵里ちゃんは誰かを見捨てることなんてできはしない。みんな欲しくって、何ひと
つなくしたくない女なのだ。
そしてわたしは、絵里ちゃんのそういうところをよく知っていたし。何よりも絵里
ちゃんのことをとても頼りにしていた。
ひとり暮らしの女同士って、そういうものなんだと思う。
大学の頃はまだたくさんの友達がまわりにいたけれど、そのままこの町で就職した
のはわたしと彼女だけだった。それなりにこわい目にあったり、さみしい思いをした
り、慣れない仕事に消耗したり。そんな時に何でも話せるのは絵里ちゃんしかいなか
った。
家族のいない場所で頼りにできるのは、ずっと絵里ちゃんだけだったのだ。
絵里ちゃんはけっして悪い性格じゃないんだけど、失った友達も多かった。彼女は
よく人の男を奪ったからだ。たまたま好きになったら、友達の彼だったんだ、ってい
つも言うんだけど、多分、人のものだとすごく良く見えてしまうんだと思う。
彼女の友達は気の毒だな、とは思っていたけど、まさか自分がそういう目に会うな
んて、思いもしなかった。
馬鹿だなあ、と思いつつ、結局わたしは、ふたりの待つホテルのレストランに出か
けた。
ふたりはわたしに、いつもはとても注文できないようなフィレステーキのコースを
ごちそうしてくれた。
ヒロトはさすがに居心地が悪そうだったけど。絵里ちゃんは、これからもずっと友
達でいて欲しいってオーラを発散しながら、わたしに高価なデザートを勧め、終始に
こやかに笑っていた。
わたしはと言えば、やはりヒロトも絵里ちゃんもなくしたくなかった。
ヒロトがわたしのものじゃなくても、二度と会えないよりかはマシかもしれない。
あるいは絵里ちゃんは、またどこかでふらりと別の男を見つけるのかもしれない。
その時わたしはもう一度、ヒロトと一緒になれるのかもしれない。
なくしたものは大きかったけれど。これ以上は何もなくしたくなかった。
甘いと言われればそれまでだけど。
わたしはもう、大切なものなんて他に何もなかったし、やっぱりどこかで二人に関
わっていたいって気持ちが強かったんだと思う。
***
きっといつかは別れるのだろう、そんなわたしの思いとは裏腹に、まもなくして、
ヒロトと絵里ちゃんは結婚した。
トントン拍子の結婚だった。
ヒロトの両親が絵里ちゃんのことを気に入り、それであっという間に話がまとまっ
たらしい。
新婦の友人としてわたしは他の同級生とともに結婚式に出た。最後にドアの向こう
で待っている二人に挨拶をすると、絵里ちゃんは、わたしにカサブランカのブーケを
くれた。
絵里ちゃんは、とてもにこやかに笑っていた。
ヒロトは、「すまないことしたな」って下を向いた。
それがヒロトの義理堅さだ。それはわかってるんだけど、そういうのって、うざい
と思った。でも、うざいと思ったのにちょっとだけ涙が出た。ヒロトも少しだけ泣い
た。
ほんとに許せないんだったら、結婚式なんて出やしないのに。
そういうものなんだと、どこかで許していたんだと思う。
でも、わたしが許してたのはたぶん絵里ちゃんの方で。ヒロトに関しては、どうな
のかよくわからなかった。
わからないけど、「すまない」の言葉で泣いてしまうんだから、やはり恨んでいた
のかもしない。
***
ヒロトの両親は、市内に二件の喫茶店を経営していた。
店にまったく関心のないヒロトは、全然関係のない会社に勤めていた。
ヒロトの両親は、結婚祝いに二人に新築のマンションの一室を買い与えた。3LDKの
南向きの部屋は申し分なくて、絵里ちゃんはしばらくそこで、片づけものや夕飯の支
度をして過ごしていたが、すぐにそういう生活に飽きてしまったと言う。
もともと絵里ちゃんは、ひとりで部屋にいるようなタイプではないのだ。
ヒロトの両親に、店の手伝いをさせて貰えないだろうか、と言ってみると、彼等は
手放しで喜んだ。人当たりもよく、手際のいい絵里ちゃんは、両親の期待どおりに、
店の仕事をあっという間に覚えた。
半年もすると絵里ちゃんは、雇いの店長に任されていたもう一件の店をきりもりす
るようになる。町の中心にある長いアーケイドからちょっと入ったところにある、雑
貨屋の二階にある店だ。
そこはわたしの勤めている会社からも近く、その店で夕飯を食べる機会が増えた。
思えば、この頃がいちばん楽しかった。
メニューをオーダーすると、店長は奥の厨房で忙しく動き回る。そのあいだ、カウ
ンターに座るわたしと絵里ちゃんは、独身の頃わたしの部屋で話していたような、友
達の噂話やとりとめのない話を延々と続ける。
ヒロトの会社が早く終わると、彼もここで夕食を取った。だけど、そんなヒロトに
出くわす時は、なんだか居心地が悪くて早々に退散した。
ヒロトが来ると延々と続くわたしたちのおしゃべりの終わるのを待たれているよう
な気分になって、どうも落ち着かないのだ。
もっともヒロトの仕事が終わるのは概ね遅くて、絵里ちゃんは、店の食材の残り物
をアレンジしてヒロトの夕食に持ち帰るのが常だった。
だから、ほとんどの日は、わたしたちは閉店まで、だんだんと客がまばらになって
くる店内で、秘密の話を続けるのだった。
***
ところで。わたしの部屋の窓には、このところ一匹のカベチョロがへばりついてい
る。
ヒロトが遊びにきてた頃は、ガラス窓を叩いて、それを落としてくれたものだ。
「言わないよ、カベチョロなんて。これってふつうヤモリって言うんだよ」
だけども、わたしの郷里ではカベチョロで、今もわたしの目の前にいるのはカベチョ
ロだ。
叩き落とす者もいないので、カベチョロは毎晩同じ場所を行ったり来たりしている。
気持ち悪いと思っていたが、ひとりになってこうして見てみると、めいっぱいに広
げた両手両脚でしがみついている様が、何とも愛らしい。
みんな去ってしまったこの家に、それでもしがみついてくれるのかと思うと、尚更
にいとおしかった。
ある日、開けっ放しにしていた窓から、カベチョロはわたしの部屋に入り込んでき
た。
まるで、異界に迷い込んだもののように、じっとまわりを見回し、それから用心深
く、少しだけ動いてみたりもする。
何かでつまんで外に出してみようかとも思ったが、結局それもできずにそのまま床
を這わせておいた。
なのに、ちょっと麦茶をつぎに行くと、そのスキに、もう姿は見えなくなってしまっ
ていた。
みんな、こんなふうに、ちらりとわたしの前に現れて、そのままどっかへ行ってし
まう。
カベチョロでもいいから、そのままここに居てくれたらいいのに。そう思うと、ちょ
っと悲しくなった。
まだ、床のどこかにいて、夜中に布団に這ってきたらイヤだなあ、と思いなおして、
床に膝をつき、しばらくのあいだ探してみた。
すると、冷蔵庫のあたりにじっとしていて、意を決してつまんでみようとすると、
カベチョロはそのまま冷蔵庫の下に潜りこんでしまった。
いいや。このままで。ここにいてくれるんだったら、あんたでもいい。
一緒に暮らそう、と、わたしはカベチョロにそう言った。
***
カベチョロはめったに姿を現さなかったが、そのかわりに矢崎という男がわたしの
部屋に訪れるようになった。
ヒロトと絵里ちゃんの結婚式の二次会で知り合った男だ。
ヒロトの大学の先輩だと言って、ケイタイの番号を手書きで加えた名刺をくれた。
「いつでも電話して」
と、人当たりのいい矢崎が言った。すると、横から話を聞いていたヒロトが、
「先輩、結婚してるのに、そんなことしちゃダメですよ」
と遮った。
だけど、貰った名刺はそのままだった。
何日かして、そのケイタイの番号に、お礼のメールを入れてみると、それはすんな
りと送信された。数分後に、メールが返信されてきた。
メールのやりとりは、毎日ではなかったけれど、夕刻に機嫌を伺うメールが入って
たりもする。
仕事を終えて、ケイタイの電源を入れるのが楽しみになった。たいした話をするわ
けではない。風の吹き具合とか仕事の疲れ具合とか、そんな他愛もない話だ。
わたしは毎日絵里ちゃんの店のメニューと簡単な自炊の繰り返しだったので、それ
はそれでいい気分転換だった。
矢崎はいつしかわたしの部屋を訪れるようになる。
冷蔵庫のビールを差し出すと、ああ、ここで飲むとうまいねえ、と矢崎は言い、そ
れから楽しげに自分の仕事の話などをした。そうして気分がよくなると、わたしの足
に自分の手をふわりと置く。それは多分矢崎の癖なのだろう。するとわたしは、ビー
ルの酔いにまかせて身体の力がふわりと抜けてしまうのだった。
でも、その心地よさ以外は何も欲しくはなかった。
ヒロトの忠告どおりだ。矢崎は結婚しているのだ。
なのに、雄弁な矢崎の口から出る言葉はいつも、わたしの衣を一枚ずつ剥ぎとって
ゆく。
人に口説かれたり、人の意思のまま動かされたりするのは、ある意味心地よかった。
あるいは、わたし自身の磁力は、まだほのかにヒロトに向かっていたのかもしれな
い。その方向を変えてくれる強い磁力を欲しがっていたのかもしれない。
手際のよい矢崎の指の動きは、この男が愛した女の履歴のように思えた。いくつも
の場所を簡単に見つけだせる男だった。
矢崎に抱かれているといつも、わたしはカベチョロの視線を感じる。つぶらな丸い
目がじっとこちらを凝視している。責めているのだろうか、ただ、覗いているのだろ
うか、そこまではわからない。
それでもカベチョロは、意思を持った同居人のように何らかの信号を送っていて、
わたしはそれを確実に感じるのだった。
もう、そろそろ帰らないとやばいかな、とか、矢崎がそんなことを言う。時間のこ
とを思い出すとき、矢崎は自分の帰る場所も思い出す。目の前にいるわたしが、その
場で消えてしまう。矢崎がいなくなる前に。矢崎の中のわたしは消滅してしまうのだ。
あとには、わたしとカベチョロが残される。実際のカベチョロは、ときおり尻尾の
先のあたりを見せて、そのまますぐに冷蔵庫の下や食器棚の裏に隠れてしまう。
それでも、切断されない時間をわたしと共有しているのはカベチョロの方だった。
「おいで。こっちにおいで」
そう言っても、けっしてわたしの方にはやってこない。
矢崎が帰るとさみしいので、わたしはいつもカベチョロを探してしまう。そして、
あきらめて、ひとりでタバコを吸うのだった。
何かとどこかで繋がっていたいから。
矢崎が来て、代わりにカベチョロまで探してしまうのはわかっていた。
どこにも繋がっていない自分と対峙できるのだとしたら。案外、そっちの方が楽な
のかもしれない。
(続く)