異邦人
「自分がみんなと違っている」「まるで異邦人みたい」、これがすべての始まりでした。孤独なのは何の苦でもありません。むしろ、それを望んでさえいます。ただ、自分の言うことが通じていないのが、辛いのです。私の求めているのは、いつも友達ではなく、話の通じる仲間なのです。友達が欲しいとか、誰かと親しくなりたいなんていう気持ちはあんまりないんです。
何かを習って覚えるとか、正解が決まっていて「真実はいつもひとつ」なら良いんです。けれど、決まった答えのない場面でみんなが意見を出し合って何かを決めるという時、私が口を開くと何故か非難され、ほとんど意見が通ったためしがありません。でも、いつも私は、まわりを批判してきました。(一人取り残されているのは自分の方だと、密かに思いながら…。)
相手が何を求めているか・その場の総意は何か・どんな目的で何の為の話し合いをしているのか・感情や心情的に許容できない人としての気持ち、なんてことを一切無視して、自分が言いたいことだけをしゃべりまくり、浮いているのは私の方だったのでした。言葉の字面や気になった単語に囚われて、本題から逸れていたのは、私だったのです。
いつも、私は、「私が正しくて、間違っているのはみんなの方だ」と思っていました。なのに、何か言われると「自分はこうだ!」と言い切る自信がないのです。私には、≪自分≫というものがなかったのでした。
モノゴコロついてから30年もの間、悩んできたことと感じていた違和感は、「自閉症」に係わることで説明がつき、すべての謎が解けました。でも、それが解ったからといって高らかに宣言することはできません。「自閉症」とその連続体の上にある障害そのものが、まだまだ社会的には認められていないし、理解もされていません。ただの甘えやワガママという、振り出しの議論に戻されてしまうのがオチです。自称であっても医師の診断書を突きつけたとしても、その辺の事情は大差ないと思います。どちらにしても、差別されたり、いじめの材料を提供する羽目になってしまうでしょう。
子供ならいざ知らず、成人になってしまった人にとって診断が必要になるのは、この国では今のところ、
- 正しい治療(薬物療法)を受けるため
- 子供達に自分の体験を活かしてもらうため
の二点です。本当はね、個性として認められて、社会的にもそれなりの評価をしてもらいたいんですけれど…。今、やっと始まったばかりだから、正に"生みの苦しみ"というところです。(恐らく、私自身も)
しかも、異邦人が異邦人だからという理由では団結できないように、やっぱり同じ言葉を話す人、会話が通じる人を探さないといけないというのは、もどかしいけれど、仕方ありませんね。
あっちこっちに、懺悔です。
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