診断と告知

−「障害」の「受容」ということ−

  1. こういうことをするのは、「障害」があるからだ。
  2. こういうことに「障害」があるので、これはできなくて当たり前だ。
  3. こういう「障害」には、こういう対応をすればいい。

これが全部揃って、始めて、「障害を受容する」と言う。

私は、息子たちに、「障害」のことをハッキリ言っている。

「できないこと」「しなくていいこと」「人に言われても、気にしなくていいこと」を、言い渡している。

そのかわり、だからこそ「しなければならないこと」も、しっかり言う。


「障害」を「受容」すると言うのは、「障害」を「容認」することではない。

ましてや、「障害」を「治し」て、きれいサッパリなくしてしまうことではない。

「障害」と共に暮らしながら、「世の中」との付き合い方を覚えていくということだ。

世間の人は、「障害」だと知らずに、いろんなことを言ってくる。できないことを非難されたり、怒られたり、誉められたりする。自分でもイヤだと思って、自分を責める。

「診断」がついたって、だ〜れも何のことか解からないし、どうしていいかも判らない。それで解決する問題もある。けれど、今まで知らずに済んでいた事まで背負ってしまう、ということでもあるのだ。

でも、余計なことに悩んでいるヒマはないのだ。


「診断」するというのは、「診断名」を付けることではない。

「告知」するというのは、「診断名」を告げることではないのだ。

何が問題で、どうすればいいかという"みちすじ"をつけるということなのだ。


「診断」なんかが付いたって、薬を飲んだからといって、それだけでは何も変わらない。

自分自身を知って、自分との付き合い方を知るのだ。

それから、自分にふさわしい、「世の中」との「かかわりかた」を知るのだ。

そうして自分が変わって、それが周りを変えるのだ。

何年も何年もかかって作られたのだから、修正するにも何年もかかるのだ。

だって、人の精神だもの。


        

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