平等ってなに?
すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある。
- 等しく教育を受ける権利⇔教育を受けさせる義務
- 働く権利⇔働く義務
- 人間らしく生活をする権利⇔納税の義務
言うまでもなく、これは日本国憲法に保障されている「基本的人権」と「国民の義務」です。この理念に乗っ取って、これまで行われて来た学校教育というのは、"すべての子どもを機会均等に処遇すれば、本人の持てる才能を発掘できるだろう"という程度のものであったはずでした。しかし、実際には、"すべての子どもが、ありとあらゆる人間活動の能力分野において評価され、その結果としてすべての子どもが序列化される"ことになってしまいました。
しかも、戦後、アメリカに「右へ習え!」の掛け声とともに、"個人の意志を尊重し自立を促す"子育て方が流行し、子どもに個室を与え"放置する"のが当たり前になってしまいました。その当時は、"社会性やソーシャルスキルとは、トレーニングなどしなくても自然に育つものだ"と思われていた。しかし、何の発達障害もないのに、"社会性"もなく"ソーシャルスキル"も身に付いていない大人をたくさん産み出してしまった。それで、今更になって〔愛着〕〔社会性〕〔生きる力〕が叫ばれるようになった。あわてて有識者を集めたら、今度は「昔に戻せ!」ってなことになっている。・・・まったく、何やってんだろう!
迷惑な話だ!
さて、この流れを「発達障害」の立場から見てみます。
まず、すべての子どもを平等に扱おうとしたら、こういう問題が見つかりました。
- 身体障害者・精神発達遅滞者など、医療的な措置を同時に行いながら・特別な設備や施設を作る必要があり・特殊な技能を教育しなければならない子どもたちの存在。
- 特別な施設や措置は必要ないが、言葉の遅れや知的な遅れがあって、特殊教育をしなければならない子どもたちの存在。
まっ、ここまでは当初から予想されていたので、始めから制度的に別けられてしまいました。でも、そういう子どもたち自身の、社会参加する"意欲"や人間として平等に扱って欲しいとう"気持ち"というものは、全く無視されてしまいました。今になってやっと、ノーマライゼーションなんていう"当たり前のこと"を政府広報で宣伝しています。(遅すぎるぞ!)
しかし、まーだまだやっと"気がついて"、あわてているものがあります。
- 広汎な発達障害があって、人との関係を作ることに困難がある高機能自閉症児の存在。
- 読む・書く・計算するという、特定の基礎学力に障害がある学習障害児の存在。
- 注意と行動統制に欠陥がある、注意欠陥障害児の存在。
- 会話に不自由のない知的ボーダー児の存在。
- 情緒的なこじれから、精神的な疾患にかかってしまっている子どもたちの存在。
その前に、"同じような問題を抱えてながら、既に成長してしまった大人"をどうにかして欲しいという向きも多いかとは思いますが(って、自分が言い出しっぺだった♪)、こういう子どもを診れる「児童精神科医」が少ないので、当然、こういう大人を診れる「精神科医」はほとんどいないというのが現状です。(早く、何とかしろ!)
もとが違っているのだから、違いは違いとして認めるのが「平等」というものです。
もとが違っていても、同じ人間として扱うのが「平等」というものです。
いろんな人がいるのだから、同じになることを要求しないのが「平等」というものです。
で〜も、「自分がこんなに苦労しているのだから、他人も同じように苦労すべきだ!」とか、「私がこんなに気を使っているのに、あの人だけ免除されているのは許せない!」とか「自分の時と違うのはオカシイ!」と言ってる人、多くありませんか?
そんなにも、みーんな、誰からも自分のことを気遣ってもらった経験がないんでしょうか?
どうして、こんなになっちゃったんでしょうねえ、この国。
それはともかくとして、どんなに素晴らしい「教育制度」ができたとしても、すべての子どもが個人の能力を最大限に伸ばす「学校」なんてものができることは、絶対にありえません。それから、「学校」というのは行政的な機関なので、社会的な箔をつけるという面も併せ持っています。「学校」に期待するものと「学校」にできることとは、ズレがあって当然です。
で、本当に個人の人生を豊かにしようと思ったら、こういうことを考えなきゃいけないはずです。そして、それは「学校」に期待するものではありません。
- 自由時間を、本当に楽しい事をして過ごすこと。
- 一人で楽しめる事を持っていること。
- 社会的に妥当な価値があり、それを通じて仲間と呼べる人を持てるような趣味も持っていること。
- 自分の気持ちを素直に表現できること。
- 人が集まっている場所では、他人に迷惑をかけるような奇異な行動をしないこと。
- 日常生活に必要な身辺自立ができているかどうか、チェックすること。どこまでできて、どういう介助が必要なのか知っていること。また、過分な無理はしないこと。
- 道具を適切に使い、安全管理ができること。使える道具の種類と自分の管理能力の限界を、知っておくこと。
- 作業や技能を習得する能力と、それらを用いて職務を遂行する能力の特性と限界を知っておくこと。
- 一度形成した習慣や技術を、応用したり変更できる能力があるかどうか知っておくこと。
こういうことが自分で判っている。もしくは、判っている人が庇護する。そして、社会に対して果たす義務を怠らないと同時に、社会から自分を守る権利も主張することが必要なのではないだろうか!?
だけど、そのためには、「自分がそういう障害を持っているということを素直に認められない」という「感情」と、それでもなお「自分の望みを叶えたい」という「欲求」との「闘い」に克たなければならない。
逆に、未診断・未治療で来てしまった人は、「自分の望みが叶わなかったのは、こういう障害があったからだ」という「原因」の究明ができてホッとすると同時に、「知らずにやってしまった失敗」に対する「絶望」と闘わなければならない。
今は、上の3〜7に該当する子どもたちが"存在している"ということが、医療と教育の最先端でやっと承認された段階です。では、この子たちが将来どうなるのか・具体的にどうすればいいのかということを本当に分かっている人は、恐らく一人もいないでしょう。でも、さしあたり、こういう障害を持っていて&重度あるいは複合していて、成人になった時点でもなお「社会生活」を維持することが困難な人にも、「手帳」をもらえませんかねえ!?
いや、私はいいんですけど、ウチの長男。危ないんです、本当に。
コイツがいる限り、私は絶対に消えて無くなることができないんです。
何故、成人した時点で「手帳」が欲しいのかというと、そりゃあ「発達障害」ですから、どういう経過になるか見極めるのが不可能だからです。どんどん成長していくので、子ども時代のまんま大人になるわけではないからです。でも、「手帳」はなくても「説明書」とか「仕様書」は欲しいです。(いや、その前に、「診断と治療をして!」だった。そして、「こういう人がいることを、素直に認める世の中にして!」だった。)
それから、余談ですが…。
最近になってやっと落ち着きを取り戻したのは、的確な「診断」と適切な「治療」の成果です。確かに、すべての「???」の正体の解明が終わって、"自分が今までやって来た過ち"に「絶望」し尽すのには、かなりの時間がかかりました。また、"自分が今まで感じて来たことは間違いでない"と承認され、自分で納得するまでにもそれと同じくらいの時間を要しました。
私は、一度、医療機関を見限っているので、ずっと、「私みたいなバカは、世界に独りきりだ」「知的障害と言葉の遅れのない自閉症の存在を知っている人は、日本にはいない」と本当に思っていました。現在は、「自閉症」の専門家の存在を知らないまま並行して独力でやってきたことと、先生方の研究の成果とを照合している段階です。
それで、確かに、"捨てたはずの命"は拾われました。しかし、普通の人間の標準に合わせずに作ってしまった「要らない部品」を組み立てて作る「ぐるんぱのようちえん」は、パソコンの画面上にしかありません。それは何故かというと、私が他人の要望に応えるサイズの部品を作れないからです。
やっぱり、こっちから見ているだけのテレビの方が良いんです。
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