ふたつの「こだわり」
最近、巷の本屋に、『こだわりを捨てよ』とか何とかいう本が平積みされている。言うまでも無く、仏教関係の本だということは著者(ひろ さちや氏)を見れば判る。この「こだわり」に二つの異なった意味があるなんて、普通、知られていない。何故なら、その一つは常識的で、もう一つは非常識だから。だって、
- 固定観念・常識・風俗習慣・社会や集団の取り決めや決まり
- いろんなものの、さまざまな要素への執着
なのだから。1はすべての地球人に共通するけれど、2は自閉民族だけの特権とも言えるもので、そういうものの存在すら知らない人には、とてつもなくヘンなものに見えるだろう。普通、人がどうでもいいと思うような、順序・序列・形・色・組合せといったものが、とっても大事で崩せないでいる人がいるなんて、想像することさえ難しい。とっても奇妙な行動をとっているとしか映らなくて当然だ、と思う。
かつて、私が仏門に入った時には、この「こだわり」の二つの意味を完全にごっちゃにしていた。言うまでも無く、私にはもともと1の「こだわり」は全然無く、2の「こだわり」に満ち満ちていた。だから、1の「こだわり」が無いというところでは仏教の哲学に一致していて、2の「こだわり」を捨てるのが修行だと思っていた。一時は、「こだわり」「とらわれ」「予定」をの三悪を捨てることを「己を捨てること」と解釈し、自分のことは一切捨てて他人のことばかり考えることに終始しようとしてしまったのだった。
それは、社会復帰後には「人間を真似ること」にすりかわり、そのまま育児に突入してしまった。しかも、その育児たるや、一人がAS&LDでもう一人はADHD&LDとなればいかなるものだったか、この組合せでなくても、こういう子供を持ったことのある人なら分かると思う。(逆に言うと、でなければ分からないだろう。)自分のやりたいことをやろうと思ったら、まずコイツらの要求を全部満たして寝かせてからする方が、自分の「こだわり」に「囚われて」、「予定」外のことは一切受けつけずにするよりも、ずっと手っ取り早かったので、ひたすら[保留]ボタンを押し続けていた。今、私がモードの切り換えが出来るのは、その時の副産物に他ならない。
で、「こだわり」の意味が違っていたことを知った今となっては、その反動で、もう徹底的に「こだわりライフ」を楽しんでやろうと思う。なにしろ、私(長男も同じだけれど)は、頭の中だけでなく体さえも特定の商品しか受けつけないくらい強い「こだわり」の持ち主なのだ。例えば、私は普段、OO園の××という銘柄のお茶しか飲めない。同じ店の違うお茶でも、違う店の同価格のお茶でも、腹痛を起こす。でも、出先で飲むお茶なら、よほど悪いのに当たらなければそんなことはないし、缶入り飲料のお茶だって大丈夫だ。これは、気のせいでも、気の持ちようでもない。事実なのだから仕方ない。貰い物のお茶が沢山あるのにわざわざ高いお茶を買ってくるなんて非経済的だ、と言われようが、もうビクビクすることはないのだ!
それから、この時期、毎年私を悩ましていた"清掃問題"にも、今年はもう決着をつけようと思う。なにしろ、家中のものが重要な順・きれいな順に序列があって、掃除の順番を組み合わせるのが大変なのだ。それに、一度ぞうきんを使ってしまうと、そのぞうきんは順位が一つ下がってしまうから、本当はどんどん順位を下げて行きたいのに、去年まではもう一つ「環境問題」へのこだわりがあってオイソレとぞうきんを捨てるわけにもいかず、涙を飲んで「洗えば復旧した」と自分に言い聞かせなければならなかったのだ。けれど、今年は、紙製の使い捨ての清掃用品を大量に購入した。でも、その前に、肉体的・精神的に疲れていることを言い訳にして、大掃除そのものをやめてしまうかもしれない!
こんな具合に、普通の人がこだわったり囚われているところは何の理解も無く容易に捨ててしまい、わけのわからないおかしなことをしているのだ。こんな我々のことを、こっちの世界の素晴らしさを知らない人には「自分たちの生活を脅かす人」と認識されてしまうのだろうなぁ? でも、こちらから見ると、そっちの方がよっぽど「ヘンなことにこだわっている可哀想な人」に見えるんだけどな!
そんなわけで、私は、まるでオバケかぼちゃ!
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